三人の産婆の語らい

公開日: : 日々のこと

「あのね、おいしい鰻が食べられるところがあるらしいの、そこに一緒に行かない?」と唐突の電話を頂きました。私は二つ返事でOKをしたのですが、その1週間後、私は脳卒中に。
発症して2年3か月、その彼女からまた連絡があり「その鰻屋浜名湖近くにあるし、滋賀から遠いから近くの温泉で1泊をしない?」とまたこれは嬉しいお誘い。しかし不安が少し頭をもたげます。だって電話の主は私の昔からの産婆仲間。彼女とお会いするのは、脳卒中発症前です。私の障害の程度を把握しているはずもないのです。私は本当に私が彼女と小旅行をして良いのか疑問を持ちました。何故って?それはまだまだ杖ついて、やっと歩いています。速度も遅いです。何が気になるかと言うと、私の発症時は半身不随。筋肉麻痺で、左手足が微動だに動きません。そうして、今はどうにか歩くことまでできましたが、高齢の彼女が私のサポートができるかというのが不安でした。
しかし車を運転してくれる彼女の友人がいらっしゃることを知りました。結局ホテルでの車椅子を押してくれたのは彼女の友人です。

お昼の鰻屋での食事はあまりにもご馳走でした。
これは私の友人のおごりだそうです。「えっ、なんで?」私は面食らいました。彼女は「あなたの、出版祝い」と一言、なんか申し訳ない感じでしたがありがたく頂きました。

その後、同じく産婆仲間の友人が浜松で開業していましたが、今は出張助産師をしているお宅にお邪魔しました。そこで昔のお話に花が咲きました。一番の思い出話は、20年も前の「男性助産師反対運動」のお話です。あの頃は、男性が助産師になれるという法律が通過しそうになりました。そこで産婆の意識のあるものが東京に集まり、国会まで行き、よく頑張りました。厚生省の会議場で記者会見、東京駅、京都駅で男性助産師反対運動のビラ配り等々まだ情熱がありました。それを思い出し「よくやったね」自画自賛です。そんな私も80歳に手が届きます。すごい思い出です。日本の女性は自分でノーと言えない方がまだまだ多いと思います。そんな中で男性助産師ができたら、女性が幸せなお産ができないと直感し立ち上がったのです。そうして法律は凍結です。しかし名称は2002年3月に助産婦から助産師に変更されることになったのです。
世界でも、男性助産師がいないのは日本のみです。よく外国男性助産師がいるのにという声を聞きます。しかしその国の女性は男の助産師を選ばないので男性助産師は経済的に困っていると言うお話を聞いたことがあります。イギリスの文化人類学者のシーラキチンガーは男性助産師に反対していたのを思い出します

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