ニュースレター3月号の記事

公開日: : 日々のこと

「お産&子育てを支える会」が発行している「ニュースレター お産&子育てサポート」3月号に、朝比奈の記事が掲載されました。


「命を産む」 ~朝比奈順子助産師が自然のお産を語る~
私は現在80歳、産婆(助産師)です。今回お産についてお話しするにあたり、私の長い助産師生活の経験談をお話ししたいと思います。お陰様で私は今、80 歳です。長い時間生かさせて頂き感謝しております。

私事、脳卒中
 実は大変恐縮ですが、私事についてお話しさせて下さい。
 2020 年 2 月 15 日、一人の自宅出産、超安産でお産まれの直後、私の左手がくるくる回り、新しい手袋を替えることができなくなったのです。私は最初 「直ぐに手袋を替えることができるだろう」と、安直に考えていました。ところがなかなか新しい手袋を替えることができず「あっもしかして私は二度目の脳卒中かも知れない」と直感したのです。そうして、自宅出産の家のご主人に「お産したお母さんも,赤ちゃんも異常ありません。しかし、私が二度目の脳卒中をおこしていると思うので急救車を呼んでください」と冷静に言いました。救急車は 15 分ほどして到着し、近くの医療センターに搬送されました。
 翌日、私の左手足は麻痺し、ベッタリ、ベットから動きません。左半身不随であることを知りました。右の脳の視床の脳出血でした。
 私は 9 年前にも脳出血をしたことがあり、その時は脳の被殻部でした。しかし後遺症は軽く、入院して 2 日目に点滴を持ちながら病院の廊下を歩行練習していました。そして 3 日目には病院を自己退院し、次の日は近くの神社の山登りが私のリハビリでした。
 それから 9 年、77 歳で二度目の脳卒中でした。実は私の父が二度目の脳卒中で意識戻らずに逝ってし まいました。もしかして父と同じようになるかもと、チョット怖かったです。しかし幸いな事に,私は意識も言語もしっかりしており、話もできました。生かされた事に心から感謝し、そして、何か使命が有るのかもしれないと感じるようになりました。

産婆 から 助産婦
 私は 1966 年に助産婦学校を卒業して、病院の助産婦、助産婦学校の教師,開業の助産婦と 50 年以上助産婦を続けてきました。戦前,戦中は助産婦ではなく産婆と呼ばれていました。しかし戦後 GHQ が産婆の学校を閉鎖させ、お産は病院で医師が主体的でする様に推奨したのです。ですから,正常な自然なお産を医師がするようにかわってきました。それまでは、産婆がお産する時に何かあったら医師が駆けつけ産婆への支援をしてきたのです。
 1948 年 GHQ は保健婦助産婦看護婦法を制定し、産婆は助産婦に名称が変わりました。私は 1966 年、昭和 41 年に助産婦学校を卒業しましたが、私が学んだ助産婦学校は産科医のお産の補助をする、つまり産科看護婦のような教育でした。当時 1955 年から 1973年まで日本の高度成長期です。病院のお産は数が多くて大変でした。まるでお産がベルトコンベヤで次から次に運ばれてくる様に多かったのです。そんなお産で大切なのは、赤ちゃんとお母さんが間違わないように細心の注意が必要でした。赤ちゃんの足には番号と名札をお母さんの手にも母親の名札を付けます。確認に確認でした。
 本来お産は自然です。産婆の時代は産婆が自然なお産を自宅でやっていたのです。戦後お産は医師が病院で医療器具を使い医師主導になり、ガラリとお産が変わってきたと思います。私は病院で医師の補助をする助産婦として養成させられたのです。病院で医師はお産を人工的に、また男性の医師があまりにも自然に逆らうようなお産をしていました。お産は女性にとって幸せで有るべきです。しかし残念ながら病院の医療の中での忙しいお産は女性の幸せなお産は出来ないのです。また助産婦はまるで女工哀史の様に働きました。夜勤の時、二人の若い助産婦は 10 人のお産を取り上げるため一晩中走り回っていたことを思い出します。そんな病院でのお産を私は反省したり疑問に思うことをしなかったのです。
私自身が 40 歳で自然なお産を体験しなければ今まで行ってきた病院のお産に疑問を待たかったかも知れません。

吉村正医師との出会い
 私は 40 歳で畳の上で、吉村正医師のところで自宅風のお産を経験しました。私にとってそのお産は目から鱗でした。今まで病院でのお産に納得がいかなかったのが分かったのです。
 私は自然のお産のために身体の訓練をするため朝夕2時間歩き、家では 300 回のスクワット、家の床を毎日水拭きしました。吉村医師はなんの薬も使わず自然のお産をするのです。彼は妊婦に日々の体の訓練を奨励します。一番悪いのは「ビクビク、パクパク、ゴロゴロ」です。彼は健診の時も,妊婦に「メッチャ歩いて」と必ず言いました。「昔の女は日々重労働をして、お産の時は安産の人が多かったようである。」と言っていました。現代の女性は車など使い歩くことは少なく、身体を鍛えることもほとんど無く、体ができていない。そんな人は自然な体になっていないので、妊娠してからでもいいので体を鍛えてほしいと、彼は常に言っていました。
私はまさにこれは「人事を尽くして天命を待つ」というこだと実感しました。
  私は長い間、病院でのお産がとても嫌だったのです。産後の母親が赤ちゃんを抱いて退院する時、幸せなはずのなのに、異口同音に「二度とお産は嫌だ」と言って帰って行きました。その時私はそれがどうしてだかわかりませんでした。今、病院のお産を思い出してみたら、お産がまるで人間のお産でなく、 物扱いのお産です。赤ちゃんは新生児室でミルクをラッパ飲みにされ、時間になると長いストレッチャーのような車に 20 人ぐらいの赤ちやんが乗せられ病室のお母さんのところに運ばれます。そこで赤ちゃんはお母さんの母乳を飲んでもらいたいのですが,新生児室でもミルクを与えられているでお腹がいっぱいです。授乳のためにお母さんの胸元に抱かれてもすやすや寝て、お母さんの母乳を飲むどころではありません。授乳のために お母さんはどの様にして赤ちゃんの目を覚ませるか悪戦苦闘です。なかなか赤ちゃんは起きません。助産婦はそんな時赤ちゃんの背中を少しさするのです。すると赤ちゃんは火がついた様に泣きます。その時お母さんは赤ちゃんが大きな口を空いた瞬間に乳首を赤ちゃんの口に入れるのです。すると赤ちゃんはお母さんのおっぱいを一瞬飲んでくれますが、しかし眠い赤ちゃんはしっかり母乳を飲んでくれずに再びねむってしまうのです。飲み残したおっぱいで乳房はカチカチになり、母親は熱を出したり、乳腺炎になったりする方もいます。母乳のケアは助産婦の仕事なのですが、人手不足でできません。母親は育児不安を持ちながら退院していったのです。
* 次号 4 月号に続く *


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