妊娠9カ月で運命の出会い

公開日: : 体験談

2014年5月4日五個荘のカフェ&ギャラリーで私の運命をかえるご縁がありました。
 この時の私は、妊娠9カ月(35週)予定日を1カ月きったところでした。
出産前から気になっていたギャラリー、ここで展覧会をおこなっておられた工房のN夫妻が、お腹の大きな私の姿を見て声を掛けて来てくださりました。そして、「今、私がお世話になった助産婦さんが来られていますよ!」と言われ、プライベートで来られていた助産婦さんを紹介してくださりました。これが、A助産婦と私の初めての出会いとなったのです。
今振り返ると、N夫妻との会話の中で、何故“自宅出産”の話題が出たのかは覚えておりませんが、これまでの曇りがかっていた私の心が一気に晴れわたったことは鮮明に記憶しています。それは何故かと言いますと、私は妊娠初期の頃から、
「住み慣れた自宅の布団で出産できたらいいな…。」という思いを持っていたからです。でもそれは、ただの理想論にすぎませんでした。
 A助産婦に出会うまで、今の世の中、自宅出産が可能な助産院があることすら知りませんでした。
この時、A助産婦が、「(自宅出産したいのなら)これまで、何故、調べなかったのか?がひっかかる。」と言われたことに対して、何も返答できませんでした。確かに、その気持ちがあるのなら、調べるのが当然です。
言い訳になるかもしれませんが、身内からは、「何を言っているの?自宅出産は無理!」と言われていたので、
“この時代、病院で出産することが当たり前なんだろう…。”と諦めていました。
私が、“何故、自宅出産を希望したのか?また病院での出産に積極的になれなかったのか?”
をお話ししますと、妊娠が分かって初めて個人病院へ受診に行った際、
医師からは「おめでとうございます!」の一言もなく、「では、次回は○日に来てください!」と言われ、あまりにも早い診察時間に愕然としたことがきっかけでした。今思えば、“おめでとうございます!”の言葉も、様々な理由で妊娠した方もおられるだろうから、簡単に口に出して言える言葉ではないのかもしれませんが、淡々とした医師の口調。体調を崩して病院に行ったかのような診察。その後の受診も、決まりきった言葉、流れ作業のような診察、待合室には大勢の妊婦さん、相談する隙も与えてくれないような慌ただしさ、医師はカルテに目を向けたままで、医師と目を合わして会話した記憶もありません。
そして、診察台で脚を広げたり、エコーを撮るため、お腹を陰部が見える位まで出す、助産師からは、「もっと出して!」と平然と言われ…。私は、そうした行為が何度おこなっても抵抗がありました。楽しみのはずの診察が、もう行くのが憂鬱になっている私がいました。
その結果、妊婦教室に行くことも消極的。一方、主人は、日に日にとても喜びを表わし、診察や教室に積極的に参加したい、出産にも立ち会いたいと希望しておりました。そんな、主人の思いを私は受け入れられず、診察も出産も立ち会ってほしくないと拒んでいました。
主人は、「生まれてくる子供のためなんだから…、そろそろ母親になる自覚を持って!」と口にするようになり、病院がおこなう行為は当然、仕方がないということを言い続けました。確かに、子供のことだから当然受け入れるべき行為かもしれません。大半の女性の方も、病院のケアに違和感を持っておられないことだと思います。だからこそ、「私の考えはおかしいのかなぁ~、母親になる資格がないのかなぁ~」と私自身も自分を否定しはじめました。
そのような思いに加え、仕事を続けていたため、仕事に追われ、疲労が溜まるばかりで、お腹の子を労わる余裕すらありませんでした。
この時、私は、「仕事をしている方が気が紛れるからマシ!」と同僚に話していたこと、仕事を優先し、生まれてくる我が子のために、身体のケアをせず、病院任せで、出産について、何ひとつ勉強してきませんでした。
こうして、努力もしてこなかった自分の身体と心、そして、病院に対する嫌悪感で、人生で何度も味わうことができない妊娠生活を無駄に過ごしてきました。もし、A助産婦に出会っていなければ、最後まで悶々とした気持ちの中で、病院の医療的処置が加えられ、簡単に出産できていたかもしれませんが、取り返しのつかない子育て生活を送り、母と子の関係が上手く構築できずにいたことと思います。
そのくらい、A助産婦との出会いは、私にとって、これからの人生に大切なモノを与えてくださる出来事になったのです。
そして、A助産婦と巡り合わせてくださったN夫妻、お二人の子供さんに接するお姿に何とも言えない温かさを感じ、ストレートに愛情表現を示されている姿と奥様の出産に対する熱いお言葉に、初対面にも関わらず、N夫妻の魅力に何の迷いもなく惹きつけられました。
そして、その晩、主人に昼間の出来事を話し、自宅での出産を希望することを伝えました。
答えは分かっていました。「もう出産まで1カ月を切っている中、突然すぎる!家族も病院での出産の方向で準備している、出産は自分だけの問題ではない!(自宅出産は)2人目からではいけないの?」という主人の言葉。それに加え、自宅での出産のリスクを非常に心配しておりました。
私が、話した直後、ネットで“自宅出産”を検索する主人。ネットには、良くないことばかりが載っており、より一層、不安を抱き、賛成はしてくれませんでした。確かに、私も、自宅出産の知識が全くなかったため、不安がなかったわけではありません。
ただその時言えたことは、“2人目からではいけない、1人目だからこそ、大事にしたい!”という根拠もない感情を抱いておりました。結局、この晩は、互いの意見は変わらず…。
ただ、主人は完全に否定はせず、「自宅出産に対して、全く分かっていない状況で、否定するのは間違っている、A助産婦の話を聞いてから判断する。」と言ってくれました。そのようなことで、後日、主人を含め、A助産婦と3人で話し合う機会を設けて頂きました。私は、上記で述べたような出産を希望し、病院での出産を受け入れられない理由を伝えました。一方の主人は、自宅での出産になった場合の流れやリスク等を先生に尋ねていたことを記憶しております。A助産婦は、ただただ、出産するのは“私”ということで、私の思いを受け入れてくれました。
しかし、「出産までの時間が短すぎること、助産婦と妊婦の信頼関係の構築にも時間が必要なこと、自然分娩には、妊婦の身体を鍛えておく必要があるため、簡単に引き受けることは出来ない!」とおっしゃりました。今になると、その場では、A助産婦の言葉に納得していたものの、身体を鍛える必要性や自然分娩の厳しさについて、甘い考えを持っていたことや A助産婦が出産までの準備期間がないと話されていたことを、陣痛時に痛感することになるのでした。
実際、期間の問題や出産後のケアの問題等も考慮し、自宅でなくとも、助産院なら畳の上で自然分娩が可能であるということで、助産院でお産させて頂くことに決まりました。主人も、「自宅なら心配は絶えず、賛成はできなかったが、助産院なら…。」ということで、その場で“自然分娩”を了承してくれました。
 5月8日、この日から、太郎坊宮の山登り、お産塾への参加など、臨月に入ってから、ようやく出産に向けての準備が始まりました。
これまで、全く身体を鍛えることをしてこなかったため、日課にはじめた山登りは、本当にきつかったですが、お産塾で知り合った同じ6月予定日の妊婦さんと共にしたことで、何とか続けることができました。そして、お産塾には、3回しか参加することが出来ませんでしたが、赤ちゃんが生まれてくる流れや陣痛時の呼吸法など、初めて学ぶことばかりで、初回はまだまだ実感が湧いてきませんでした。
この時、“もっと早い時期から、こういった機会に参加できていたら…”とどれだけ思ったことか…。これまでの病院では、同じ妊婦さんの方と話したこともなかったのですが、お産塾で、妊婦の方、これから妊娠を望んでおられる方、先輩ママと交流ができ、このことが一番の励みになりました。
また、同じ“自然分娩”を希望しているだけに、思っていることも素直に口にすることができ、何よりも、これまで病院のスタイルに違和感を抱いていても、周囲からは理解してもらえず、孤独だったが、それに共感してくださる先生や同じ妊婦さんがいてくれたこと、このことにとても救われました。
“私は間違っていなかったんだ、これで良かった。”とようやく自分を認めることができました。私は、この数日間、これまで憂鬱とした日々とは一変し、本当に充実した時間を過ごすことができました。そして、A助産婦の初めての健診の際、お腹を撫でて、赤ちゃんに挨拶してくださったことがとても嬉しく、今も強く心に残っています。
 5月24日、この日は、主人も休みで、ぐるりの家で料理教室に参加することになっていました。
 6:30、夢の中で(内容は忘れましたが)泣いており、実際に目覚めても涙しておりました。久々に、“夢なのに泣いたなぁ~”と思って、トイレに起きました。すると、10円玉位の大きさの薄い血がトイレットペーパーに付着。この時は、特に慌てることもなく、とりあえず、A助産婦に電話をかけました。A助産婦は、いつものように落ち着いた口調で「様子見て、いま太郎坊に登っている!」とおっしゃりました。そして、そのままもうひと眠り。
 8:30、主人と朝食を食べている最中に、子宮を締め付けられるような軽い痛み、だが30秒ほどで治まり、3分後、また同じような痛みがあり、これが3~5分おきに1時間ほど続きました。でも、食事や会話など日常生活を変わらず送れる状態。主人も休みだったため、ずいぶん冷静で、陣痛の痛みも経験したことがなかったため、「これって陣痛なんかな~?」と口にしながら、時間をメモしていました。しかし、軽い陣痛が始まり1時間後、トイレへ行くと、今度は、ペーパーいっぱいに血が付着。ようやくここで、“とうとう来た!”と自覚するのでした。
再度、A助産婦に連絡し、入院準備を持って助産院へ行くことになりました。
この日は、朝から別の妊婦さんの健診でM助産婦も来ておられ、
出産までの時間、A助産婦、M助産婦が付き添ってくださることになるのでした。
 8:30から、定期的に陣痛は続き、徐々に痛みは増してきているものの、まだまだ普通にしていられる状態だったため、11時半からの料理教室に参加させてもらいました。出産が迫っている中、皆さんと料理作りをおこない、食卓を囲み、日常会話に花を咲かす、そんな輪の中にいれたことがとても幸せでした。病院なら即入院になって、一人病室でただひたすら痛みをこらえるだけだったでしょう。
“出産は、日常生活の流れの中で、家族に囲まれて自然に行われるもの”これが本来あるべき姿なんだ“と思いました。
料理教室が終わる頃には、痛みもキツくなってきました。助産院に戻ってから、陣痛を促すため、A助産婦が付き添いのもと、主人と3人で、助産院の前の神社、そして太郎坊宮の山登りに出かけました。この時の道中も、M助産婦が面白おかしくお話を主人と私にしてくださり、M助産婦の明るさがあったことで、全く辛く感じられず、安心しきっておりました。
 19:00 診察、太郎坊宮に登る前より痛みは増してきているが、子宮口の大きさは変わっておらず。助産院にて、夕食を提供してくださるも、全く口にすることができず、座っていることもできなくなりました。これまで、話すことは普通にできていたが、ここにきて、話すことすらできなくなりました。
 21:00 その後、ベッドで休ませて頂くが、陣痛の痛みは和らぐどころか、一歩一歩強まり、寝ることはとうてい無理でした。このまま寝ていても、出産までの時間が遠のくばかりなので、助産院の階段を上り下り、スクワットを繰り返しながら、分娩室の布団の上で、一つ一つの陣痛を死ぬほどの思いで乗り越えましたが、痛みに耐えられず、取り乱してしまいました。どれだけ“逃げ出したい、この痛みから一刻も早く解放されたい!”と思ったことでしょう。この時、A助産婦から、「陣痛は、母親になるために必要な時間、お母さんが泣いていてどうするの!」と声を掛けてくださりました。これを境に、ようやく、この痛みと向き合う覚悟ができました。
 5月25日、5:00 ようやく赤ちゃんの頭が、私の手でも触れる位置までおりてきました。
実は、子宮口が全開になったのは昨夜の23:00で、そこから出産まで7時間かかったのです。出産後に、A助産婦が、「もっと早い時期から身体を訓練し、筋肉を柔らかくしていたらもう少し楽だったかも…。」と言われ、ここで初めて自然分娩の厳しさを痛感しました。
 6:55 待ちに待った赤ちゃんとのご対面。3126グラム、男の子の誕生。
生まれてこの方味わったことのない感情でした。
ただただ、22時間、一晩中、私に付き添い、我が子が自分の力で誕生できるようサポートしてくださったA助産婦、M助産婦、そして、主人に感謝する言葉しかでてきませんでした。
そして、有難いことに出産直後から、母乳を我が子に含ませることが出来たこと、退院後に、そんな丈夫な身体に産んでくれた両親に感謝する思いが、徐々に芽生えてきたように思います。出産後数日は、疲労の余り、母乳をあげることだけで精一杯でしたが、日に日に回復すると共に、愛くるしさが増し、その一方で、“責任”というプレッシャーがのしかかってきました。
でも一つ言えることは、今回、自然なお産を経験できたことは、私にとって、“これから待ち受けるどんな壁も乗り越えていけるのではないか…。”と思えるお産になったのは確かです。
 最後に、A助産婦、M助産婦、私の初めてのお産は、私の準備不足もあって、陣痛の痛みにこらえるだけで精一杯で、この時間に感謝する余裕も持てませんでした。A助産婦が「お産は命がけ!」とおっしゃる通り、この意味をしっかり理解できていたならば、出産間際で自然分娩を依頼することに戸惑っていたかもしれません。でも、そんな無茶なお願いにもかかわらず、お受けしてくださったことに、とても感謝しております。身体と心を鍛えること、A助産婦と私との信頼関係構築においても時間が短かったこと、私以上に、A助産婦、M助産婦は、心配な気持ちでいっぱいだったのかもしれません。でも、そんな不安さを一つも感じさせず、いつも温かな気持ちで迎えてくださったことに、とても安堵しておりました。今後、2人目を授かることができましたら、我が子を万全の態勢で迎えられるよう、身体と心を鍛え、陣痛の意味をしっかり理解し、陣痛に感謝できる自分でありたいです。
 R先生、毎日、玄米を提供してくださり有難うございました。
生活を豊かにするために、小豆を炊く、目の前の用水路に石を置き、川のせせらぎを作り出す、薪ストーブの廃材を切る、そういったことに時間を惜しまないお姿がとても素敵で、私も、いつかR先生のような丁寧な暮らしができるようになりたいと思いました。
この度は、私の願うスタイルのお産が選択できたこと、それを実現してくださったA助産婦、M助産婦、R先生に心より感謝申し上げます。私にとって一生忘れられない体験となり、自信を持って誇れるお産になりました。
(Y.Kさんお産の体験談2014.6 子どもの誕生〜出産の記録〜)

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