家族のこと

公開日: : 日々のこと

やっと第4弾の原稿が書き終えました。5万字です。
自分史と母の歴史の様な物です。今日は「おわりに」を書きました。結局自分で書きながら、ただただ母への感謝の気持ちが、沸々と湧いてくるのでした。私は両親が1930年代に朝鮮からの出稼ぎです。私は日本の東京の深川で生まれました。私が赤ちゃんの時家族は東京から栃木県足利市に疎開をして小、中、高等学校と、大きくなりました。1947年戦後2年後キャサリン台風で足利の渡良瀬川が決壊し、我が家は濁流の中に飲まれ流されました。夜だったので、どこも怖くなかったです。ただ私の口に汚い水が入って来て、ジャリジャリと口の感触は今でも忘れられません。4歳の時ですその様な記憶があるのですね。そうして、奇跡的に生きました。最近長兄に聞いた話ですと、彼の足元に何かあると思って髪の毛を引っ張ったら、それが私だったそうです。結局長兄に助けられた話をつい4.5年前に聞いたのです。つまり人生って、本当に九死に一生があるのですね。私は人生に何回か九死に一生と言って生かされたことがあります。その大洪水の時、4歳の私が家族と家とも流されたのに命が助けられたこと、それから私は今まで2回も脳卒中をして、それでも命は助かり、現在でも2回目の脳卒中の後遺症のためリハビリをしています。人生は奇跡があって生かされていることを実感させられます。
我が家はその後子沢山の家族がどうにか元気で生きて来ました。弟は1945年生まれです。赤ちゃんであった弟は母の背中におんぶされ大洪水の中を流されこれも奇跡的に助かりました。母はこの弟をこの上なく可愛がりました。自分背中の子供がもしかして亡くなっていたかも知れないのです。それが奇跡的に助かったのです。母は本当にありがたいと思ったでしょう。またその後は日本は食糧難だったのでしょう。弟のお腹はアフリカの子供の様にまるでパンパンのお腹で、栄養失調だったそうです。それでも生きて来て、57歳で子供2人育て大学を卒業させ、肺がんになり他界しました。母は幼い時、栄養失調の弟を一番可愛がっていました。それも、やっぱり兄弟の中で一番頭がよかったのです。試験の時など、特に勉強もせず、こたつに入って横になりながらなんとなく、本を読んでいたりしているのに、試験の点数はとってもよかったのです。やっぱり本当に頭の良い人はいるのだなといつも感じていました。しかし彼も丁度父と同じ年に57歳で肺がんで他界しました。私は亡くなる前、数日前に彼の所で、彼の手をオイルマッサージしたりしてゆっくりとしていたら彼は私に「今お袋のところに行くと、まだ若いのに来た、と怒られるかな」と言うのです。
私は「そうだね、怒られかもね。でもあっちに行くのは誰でもいつか行くのだからね」と彼に言いました。すると彼は少し頷き、それからは何も言わなかったです。つまり姉である私に不安な気持ちを言いたかったのかもしれません。私は彼とこんなお話ができたのがとっても良かったと思います。

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  • 現在、朝比奈は左半身が不自由なので直接お産には関われません。夫が緑町診療所の1床で自然分娩をやっています。ここでは若い助産婦がお産をやっています。妊婦健診時には、朝比奈も若い助産婦と一緒に お話をさせてもらっています。実は半身不随になり、一度はお仕事を断念しようと思いました。おかげさまで生かされたので「まだ私のやらなくてはならないことがあるのでは」と思いなおしました。今のところ言葉には何の支障もありません。お仕事を少しでも違う形で続けられれば嬉しいと思っております。

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