オモニへの讃歌

公開日: : 日々のこと

「なぜこの本を書くか」
私は年齢79歳になります。77歳で脳卒中の大病を発症しました。それまで助産師(産婆)を55年間仕事をしてきました。戦時中昭和18年生まれたのです。
私の両親は朝鮮植民地時代1938年韓国からの出稼ぎです。朝鮮植民地時代(1910〜1945)韓国の田畑は朝鮮総督府に取り上げられ農業をしていた父は男5人兄弟の四番目で結婚をしましたが、農業で生活ができず、日本に出稼ぎにきたのです。母は3人の子供連れ先に日本に行っていた父の所に5年後いきました。極貧の中両親は子供8人を儲けましたが、1947年カサリン(キャサリン)台風で足利地方は渡良瀬川の大洪水で大被害を受けました。その時私は4歳、10歳になる二男を行方不明で亡くし、子供は全部で7人を育てました。両親は日本という外国で極貧の中、戦中、戦後と職業を転々として生きてきました。そうして7人の子供の5人に大学教育を授け、日本社会で、子供たちが社会に役立つ仕事をそれぞれ持ち、孫には精神科医、耳鼻科医、歯科医2人と立派に社会貢献して日本で生活しています。
人間はどんな極貧でも、しっかりとした哲学を持ち、子供を育てることが大切です。韓国人が日本に、出稼ぎに来て、差別と偏見の中、両親は韓国人であるプライドを持ち生きてきた為、韓国人であることを隠すこと無く、堂々と生きてきた両親の背中を見て子供たちは育ち、兄弟は互いに学業に励みました。その頃私達の地域で近所に大学に行く人は誰もいませんでした。やはり将来を見たら、いかに子どもへ教育が大切かですね。私は考えてみたら、両親に「勉強しろ」とは言われませんでした。兄弟喧嘩をしながらのびのび育った感じです。しかし両親は兄や弟の男の子には勉強しなさいと言ったようです。これは大人になってから聞きました。両親は男の子の教育に熱心でした。それは根底に男尊女卑の思想があったからだと思います。
私ははるかかなたに歳上の姉が2人がおり、私が小学校低学年の時に2人は嫁に行っており家の中は私1人が女でした。

「男尊女卑」
私は2人の兄2人の弟の間に生まれ男の子の間で育てられました。小学3年から学校に行く前、家の廊下の拭き掃除玄関の掃き掃除をして学校に通った。そうして学校から帰ると、お風呂にポンプで水を溜め、薪で風呂を焚きご飯も薪で炊く仕事が待っていました。
母は儒教の男尊女卑の社会で育ったため、男には絶対箒を持たせなかった。そんな中、私は中学校の社会の先生がこれからの女性は職業を持って自立することが大切と一言言った言葉に触発され、「そうだ私も自立しなければ」と思ったのでした。しかし実は大学に行かねば職業を持てない。残念ながら、高校が家庭科です。両親が、「女は早く嫁に行け」という考えでした。大学に行くには何を選ぶか?教師になるか?いや私は教師になりたくない弟が2人おり彼らの世話を焼くことくらいできるから看護婦になる方が良いかも、と思い看護師の大学を目指すことにしたのです。しかし高校は家庭科です。科目は衣服、食物という時間はたくさんあり、大学入学のための主要科目、数学、物理、英語等は普通科と比べると半分です。なかなか入学受験まで太刀打ちできない感じでしたが、当時家庭科の友人の中に4人ほど大学に入りたい人がおり彼らと一緒になって、3年の夏休み「学校に行って、バケツに水を入れ足を冷やしながら、互いに受験勉強した思い出があります。そうして、4人は大学にめでたく合格しました。
私も当時は看護学校といえば、病院附属の看護専門学校が多く病院から奨学金などをもらって看護師の勉強をして居た人も多かったです。私はあえて、看護の短大、聖母短期大学に受験したのです。その当時看護大学は全国に3〜4校しかなかったのです。私の行ったた大学は本当に小さな大学で、全寮生でカトリックの修道院が経営しているとこです。当時は病院実習時それぞれの病棟の婦長は皆外国人、内科病棟はドイツ人、外人病棟はアメリカ人、総婦長はいイタリア人。私は栃木県の田舎から東京の国際的な小さな看護短大に入学したのです。私にとってその場所は学生は日本人でしたが、学生間では偏見も差別もない社会でした。勿論私は田舎で育った中で近所の子供たちの中でも、特に差別された感じはありませんでした。それは我が家が近所の人たちより裕福だったからかもしれません。両親は日々真剣に新しい仕事を探しチャレンジして起業していたので、経済的に恵まれていました。小学校時代は周りの人たちは本当に貧乏でした。小学校で身体検査をする時ほとんどの生徒の下着は汚く、まるで醤油で煮しめたくらい茶色でした。クラスの中で、白い下着を着ていたのは私と、地主の娘さんだけでした。
日本社会でいかに努力して周りの日本人より経済的にも、子供の学力も高いことが必要でした。それは日本人に差別や偏見を受けないようにするためにです。

「大学合格しても学費がない」
両親に秘密で看護大学を受験したのですが、めでたく合格したのです。合格したのは本人は嬉しかったのですが、両親は学校にやるお金がない、今2人目の兄が大学に行くし、弟も行くお前は女だから大学に行く必要がないと言われた私は路頭に迷いました。それでは東京のどこかの会社に就職し、夜学でも良いから大学に行きたいと思い、ある銀行の就職試験受けたのです。しかしその就職試験も落ちました。私は後は大学しかありません。私は自分の部屋でハンガーストライキーをし3日間布団をかぶって起きなかったのです。しかしこっそり夜、釜の飯を少し食べていました。しかし母親は心配して、義兄から、少し学費を借りて、結局大学に行くことができ看護学校に行くことができました。また、その上1年間の助産師の勉強をし、今があります。
そうしてお陰さんで助産師として綿々と現役で仕事をして、55年間産婆をしてきました。その間35歳で結婚し40歳で高齢出産しました。69歳くらいまでは特に病気もなく過ごしていましたがやはり年齢も70歳ちかくなると、色々な病気が出ます。胆石たんのうえん、入院もして病気をしましたが、その間少し病気をしてお腹を切ったりしてきましたが、お陰でどうにか今は元気です。夫は80歳私が79歳という高齢で日々をゆっくり生活して、一人娘にも恵まれ今ゆっくりと、生活できている幸せを感じます。まだもう少し生きていたいと思います。まだまだたくさんのことを書きたいです。今、両親のこと、これからの日本のと、私は38歳で日本国籍を取りました。日本人として何が出来るかこれが私の残もしれません。まだ日々の学びができることの喜びを持っています。

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