ちょっとおかしくない?
公開日: : 日々のこと
ほとんどの人が病院で出産していますが?
実はこの頃いろいろと頭のなかが混乱していました。
それは長年助産婦をやってきて感じたことなのです。私の母は戦前、戦中、戦後と八人の子供を産んで七人育てました。一人は1947年カサリン台風による栃木県足利市の渡良瀬川大洪水時行不明で失いました。
しかし母は七人の子供を父と共に必死に育て私は今80歳になって母への感謝の気持ちを本に書くことができて幸せです。
しかし私の職歴は昭和41年に病院助産婦(当時の名前)として養成させられました。その後助産師の教員を7年間して40歳で自然分娩を体験し、「目から鱗」で私は決して病院院助産婦になりたくないと思ったのです。するとどうでしょう。何の宣伝もしないのに、ある若い女性が自宅でお産をして欲しいときました。私は最初は躊躇して「考えさせてくださいと」と言いました。その後結局小さいアパートでの自宅出産をお受けしたのが最初の自宅出産です。まさに犬が出産するのと同じように「ぽろり」と自宅出産です。これぞ「目から鱗」
私は助産婦学校の教員までやりましたが、残念ながら自宅出産を学生にもまた自分も勉強してきませんでした。全てはお母さんから学んだのです。
考えて見ましたら、私の助産婦教育は本来の産婆教育でなく、産科医の補助をする産科看護婦の養成でいることに気付いたのです。
それは私が50歳になり自宅出産や助産院のお産を通して、本当のお産の支援がどうあるべきか、また「お産とは?」に疑問を持ってきたからです。私が助産婦学校を卒業の頃、昭和41年頃にお産がまるでラッシュでベルトコンベヤーのようにお産が行われており,当時の女性として非常に不幸な時だったと思います。助産師は手不足で母乳のケアもできず、おっぱいがパンパンになり赤ちゃんもまだちゃんと母乳を飲むこともできず退院します。母親はお産は医療的に近代化の綺麗な機械の中で産まされ、女性の出産への達成感もなく退院して行きました。その時母親は「異口同音」に「二度とお産は嫌」と言って退院していきました。
私はその言葉がどんなに大切であったか、今わかりました。私は産婆の現役を77歳までしてきました。つまり約55年間してきました。しかし50歳からは地域のいわゆる産婆として自然分娩をやってきたのです。
そこで気がついたことがあります。それは若い妊婦さんと実母との間に亀裂あることが、結構いるのでは?と直感したことです。それはどうしてでしょう。それは出産をする時に母親は自然に愛情ホルモンのオキシトシン、プロラクチンを出すのですがその愛情ホルモンを、実母は愛情ホルモンを出すことなくお産が終わっていなかったか?それが問題です。
つまり医療化の前には産婆がこの妊婦のお産を対話しながらいかにお産を迎えるか指導し、女性が女性を支えてきたのです。しかし戦後は1948年に保助看護婦法が施行され、名称が変更され、産婆の名が助産婦に変えられたのです。それはGHQの影響だと言われております。
そうし私は50歳から地域の産婆として開業届を出しました。そこで感じたことは今まで感じなかった、いかに自然なお産が女性与える素晴らしきプレゼントを目を見開くことができました。ほとんどの自然なお産をした母親は「もう一人赤ちゃんが欲しい」と言います。それはお産が女から女への伝承で今まで感じなかった自分がお産を主体的にした達成感があったからでしょう。赤ちゃんが可愛くて仕方がないのです。「もう一人赤ちゃんが欲しいと三人四人と産む母親が多くなってきました。これは見逃したらいけない事実です。出産の時愛情ホルモンのオキシトシンがたくさん出たのでしょう。少子化が進み現在一番大切なポイントを政治を司っている人は忘れていないでしょうか?
なぜ歴史を見るのでしょうか?それはその中に何が潜んでいるからだと思うからです。
今までお産の方法、場所など考えたこともなかったからかもしれません。それは残念ながら立法府には女性が少なすぎるからかもしれません。ヨーロッパ先進諸国やカナダ、ニユージーランド、オーストラリア等の国々ではダイレクトエントリーに助産師教育を早くも20年前から改革し、充実した産婆教育をしています。産むときがどんなに大切なのかは女性が学べばはっきりしてくることですが、残念です。自分の頭で考える教育をされてこなかった現実があるのだと思います。
- PREV
- オモニへの讃歌zoom
- NEXT
- 憧れのカナダ旅行