体験談(過去のHPより)

公開日: : 体験談

5人目を出産したMさんからのお便り  (長文)
5人目にしてやっと完全母乳になりました。

朝晩涼しい風が吹き秋の気配を少し感じられる今日この頃皆様にはお変わりありませんか。
私達M家は元気一杯毎日を送っております。
さて、この度私は仕事に復帰しました。
出 来る事なら流雲が1歳になるまで休みたかったのですが経済的に苦しいことが影響しました。特に上3人の子にはガマンしてもらう事が多く今までは流雲の為に 休んでたので、今度は上4人の為に仕事をしようと思いました。戻ると決めた時は流雲を抱き締め1人ボロポロと泣きましたが、それからは泣かずに、自分の選 択を後悔しないと決めました。蒼凛と同じ保育園ですが、会社の近くなので昼休みの授乳が可能か聞いたら快く承諾して下さったので入園させる決心もつきまし た。
お昼会いに行くと私を見つけた途端嬉しそうに、でも少し泣きながら急いで来てくれて。私を幸せな気持ちにしてくれます。
毎日が慌ただしいく、でも楽しく過ごさせています。

私 は5人目を妊娠するまでは、産婦人科で産むのが当たり前だと思っていました。産んだ日は母子別室、豪華な料理と心地良いサービス、、、本当に自分の都合だ け考えていたし、ブドウ糖やミルクを足して”管理”される事に何の疑問を持っていませんでした。でも4人目の時に分娩台の上でお腹にベルトを巻かれ上向き でいるのがしんどく、座わりたいと言ったら駄目と言われた事が強く印象に残っていました。そこで5人目の妊娠中に「産む」ことにこだわりたいと色々調べ始 め通院してた産科でのオープンシステムは助産師さんの都合が合わず利用できませんでした。でもいまではそれも必然だったと思います。パソコンで先生の所を 知り、HPにあるような素晴らしい体験が私にも出来るのか、母乳で育てあげたことのない私でもオッパイが出るのか半信半疑でしたが、私の思いをメールした 所、快く受け入れて下さいました。オープンシステムが駄目だった時に諦めなくて本当に良かったと思っています。

先生にお会いしてからは、5回目のお産にも関わらず、初めての事ばかりで驚きました。自分がいかに受け身のお産をしてきたか思い知らされました。すると私も色々な本を読んだりして勉強する様になりました。

上 の子供の時、毎回入院中はオッパイだけで大丈夫と言われていても帰宅後出なくなり健診でミルクを足すように言われ、だんだんミルクに移行していきました。 4人目の時も今度こそと思っていてもやっぱり2週間健診で足すように言われ、オッパイだけで育てられない自分は母親失格のように思っていました。どうして 「もっと吸わせて」と言わすに「ミルクを足して」とか「オッパイとミルクを交互に」なんでしょう。、、、でもそれもまた母乳だけで育てるという強い意志と 幅広い情報を持ってなかった自分のせいでもあったのでしょう。
どこへ行っても「カワイイね」の後に「母乳?」と聞かれてそれが本当に嫌でした。ども今は胸を張って「ハイ」と答えてます。私は母乳が出ないと思い込んで落ち込んで余計に出なくなっていましたが、初めて母乳だけで育てられてすごく嬉しいです。
母 乳のみというのが初体験でいつも添い乳をして私の顔を見るとオッパイをせがみグズる我が子を見て、みんなそうなのかわからず不安になった時もありました が、他の母乳育児のママさんと話すと同じことやってて夜起きるのも当たり前でオッパイの為にも良い事を知って安心しました。
成長した我が子を抱き自分が飲ませたオッパイで大きくなったのを実感すると本当に愛しく思います。上の子達の分までという気持ちで充分飲ませて上げたいと思います。
な ぜもっと早く助産婦さんに出会えなかったかとおもいますが、主人から「知らずに終わるより、5人目でも会えて良かったやろう?」って言われました。(最初 は助産院でのお産を心配してた夫も退院後は本当にいい体験ができたと喜び、先生からのお手紙まで頂いて感動していました。)

今回前駆陣痛というもを初めて体験したのですが、その日は家族みんなと先生とでたくさん散歩をしました。毎日の忙し日々には感じる事ができない自然の営みに触れ、たくさんお話もして、、、それもいい思い出です。
お産の時も家族に囲まれ手を握って背中をさすってもらい、助産婦さんがそばに居て下さり本当に安心でした。
助産婦さんの「良いよー」とか「大丈夫」といいう言葉は本当に心地良く感じました。大人の私でさえ自分を肯定してもらうと嬉しいのだからと家でイラついて 怒ることが多かった私は努めて否定的な事は言わない事にし、『大丈夫』を真似するようにしました。そうしたらある日娘に『お母さんは助産婦さんみたい」と 言われました。嬉しかったです。今まで”こうじゃないと駄目”という堅物でした。すぐには変われないですが、少しずつ自分を好きになっていけたらと思いま す。
食事の面でも変わりました。入院した4日間助産婦さんの所での食事で明らかに変化があったのは驚きでした。
自分が食べたものがそ のまま母乳になる訳ですから極力天然のものを体に入れるよう心掛け、根菜やキノコ類を毎日多く食べるようになり、献立も野菜中心で考えます。でもダシも パックを使っているし、まだまだですが、少しずつ『自家製」を増やして料理上手なお母ちゃんになりたいです。子供達の成長や味覚は母親の責任が大きいと思 うので、、、本当に健康で毎日ごはんが食べられるという事が幸せで、全てのことに感謝です。

私は子供好きな大人ではありませんでし た。子供を産んでも可愛いのは自分の子だけ、4人目から少しずつ他の子も可愛いと思えたように思います。5人も育ててすごいと言って下さる人もいますが、 育児とは『育自』とよく言われるように、私は5人育てないと母親になりきれなかったんだと思います。まだまだ未熟で反省の日々ですが、大切な夫と子供達に 恵まれた幸せな環境の中で少しずつ成長していきたいとです。やりたい事がたくさんあって焦る時もありますが今はその時ではないと思い子育て中心に頑張りま す。『子育ては修行』と何かで読みました。本当に日々私達夫婦で色々な壁にぶつかり、迷いながら歩いています。自分達の無力さに悩みながらも、子供達を授 かり世に送り出すまでの大事な時期を担っていると思い全力で子供達と向き合いたいです。悩みは絶えませんが、それ以上幸せにしてもらってますから。
まさに産まれ落ちるという言葉にふさわしく産まれてきた我が子を、へその緒がついたまま抱き締めたぬくもりは今でも覚えています。あの時家族で共有した幸 せな時間を忘れる事なく毎日を送っていきたいと思っています。いつの日か私もどんな形でかわかりませんが、母乳や出産に関わることができたらと思っていま す。またいつか子供達とお邪魔をさせて頂きます。思うままに書いたので読みにくい所も多いくあったと思いもいます、すみません。
これからもお体に気を付けて多くの尊い命を取り上げて下さい。

2009.8.31   K.M S.M

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お母さんから頂いた手紙     09.8.28
09年7月29日に4人目を自宅出産したFさんからお手紙を頂きました。彼女は4人目の妊娠を自分自身で 頑張ろうと前のお産の時には無いくらい頑張って毎日よく歩きました。しかし予定日から12日遅れで出産しました。予定日を過ぎるとどうしても色々焦りま す。予定日より2週間遅れると正常出産の範疇ではないため病院出の診察を必要とします。Fさんは病院受診する予定の1日前にちゃんと陣痛が来て助産婦が到 着して30分たらずで超安産の出産でした。

朝比奈助産婦さんへ
この度のお産では大変お世話になりました。
出産に至るまで心が定まらず不安定な私にいろんな話しをしてくださり、根気強くつきあってよりそって共に歩いてくださった事、とてもうれしかったです。
今回、不安いっぱいの私に先生は『なすがまま。なされるがまま」「人事を尽くして天命を待つ』と何度も仰ってました。はじめのうちは言葉を頂いてもなかな か心に入らず心がゆらいでいました。でも本当ににギリギリまで追いつめられて最後に先生と登った太郎坊宮の帰りすとんっと心に響いてすうーっと心が軽く なったのがわかりました。やれるだけの事をやろうと帰ってから家の階段を30分程登り下りし、次に日の朝は今までにない気持ちで迎え、早朝のウオーキング も自然への感謝、家族への感謝、目に入るものに「ありがとう」の気持ちでいっぱいになりました。不思議な何とも言えない感覚でした。でもそれが出産の予感 というわけではありませんでした。だから正直、血を見た時、もしかしたら赤ちゃんがあぶない?と思ったほどです。でも無事元気に生まれてきてくれてホッと しました。何も望みません。本当にに何事もない、普通というのがとても尊いと思いました。
目に見えない力をたくさん感じれた出産でした。身のまわりに起きる事、目に見えるもの、全て無駄なものはないと思える様になりました。たくさんの学びをありがとうございました。
朝比奈さんこれからも多くの方に幸せを感じさせて下さい。
ご活躍をお祈りしてます。
平成21年8月28日  EF

今度3人目が産まれるんだ。
楽しみだよ。元気な赤ちゃんだといいなー。
助産院にて。
お母さんの予定日は10月5日なんだ。

赤ちゃん
赤ちゃんは天使

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おめでとう

道ばたの百合
ひっそりと百合が咲いていました。

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私の自宅出産   北川 由紀 09、6、27
この度の出産では本当にお世話になり、ありがとうございました。

子供はもう2人で十分かなあと思っていたものの、昨年の夏ごろに急にもう一人産んだほうがいいような気持ちになりました。私たちのもとに生まれたがっている命があったのでしょうか。
先生もよくおっしゃっているように、女性には本来スピリチュアルな力が備わっていて、妊娠や出産の時には特にそれを発揮するように思います。
そして、妊娠がわかった時には絶対朝比奈先生にお願いしようと決心していました。
やはり上の2人のお産とその産後の入院生活が非常に苦痛だったことがあり、今回は自分らしく自然に産みたいと考えたのです。
夫はNOとは言わずに「それがいいと思う」と賛成してくれました。父母も昔の産婆さんによる自宅出産を経験しているためか、反対はされませんでした。

お産にむけて食事を気をつけたり、ウオーキングに励みました。「私はただお待ちしているだけです」という先生のお言葉で、産むのは自分なのだからと頑張れました。
正直、朝起きて雨の音がすると「歩かなくていいんだ」とうれしい気持ちになったこともありましたが、早朝の気持ちよさ、新緑の美しさ、道端のお地蔵さんや神社に心の中で手を合わせながら歩いたこと・・・ずっと忘れないと思います。
そして太郎坊の階段。小山さんと詩の中の「歩こう 歩こう 登ろう 登ろう」というフレーズがいつも頭の中を回っていました。

今回はお産の日を迎えるのがいつかいつかと楽しみでたまりませんでした。出産前日の寝る前になんとなくやっておいた方がいいような気がして階段を10往復したのが効を奏したのか、破水して陣痛が来たときは「やっときた!」とワクワクしたものです。
本来なら病院に入院、抗生剤の注射・・・というところですが、今回は家で洗濯を済ませ、おにぎりをにぎって、そしてまた階段を往復している間に時は過ぎていきました。
陣痛も波乗りのイメージで1つ1つを乗り越えられました。
自分が思っていたよりもゆっくりゆっくりと進んだお産でした。しかしそれは「理由があることだから」と先生は説明してくださり、本当にそのとおりでした。
分娩台ではできない四つ這いのスタイルで産んでみたい気もしていましたが、最後に横になってみたときに、しっかり陣痛がくることが自分でもわかりました。とにかく尾骨あたりが痛かったので、お尻が床についているのが非常に楽だったのです。
ヌルヌルとしたなんともいえない温かい赤ちゃんを自分で胸に抱き上げることができたときは最後の苦しさもすべて忘れてしまうほど感激すると同時に、元気に生まれてきてくれたことに感謝しました。
その当日の夜、5人になった家族で布団を並べて眠ることができて、この上ない幸せを感じ、
「もうけっして子供を怒りません  観音様のような母になります」と心に誓いました。
お産の間、先生、三宅さん、ケイトリン、そして夫の手が足や背中をさすってくださり、ずっとそばについていてくれたこと、陣痛の合間にはたわいもない会話で楽しかったこと、本当に贅沢なお産でした。

出産そのものに焦点を合わせた毎日でしたので、出産後は多少の燃え尽き感がありましたが、そうは言っていられない子供3人との怒涛の毎日が始まりました。誓いはむなしく、観音様は時に鬼に豹変することもたびたびです。
実家の母も3人の子育てをしたわけですが、「その時はただ必死で大変だったけど、今思うと一番楽しい時期だった」と振り返ります。
わたしにとっては今がその時期なのかなと、大変ながらも一番楽しい子育てを楽しみたいと思います。

そ して「いいお産」とは?自分なりに考えてみたのですが、やはり妊娠中からしっかり動いてしっかり食べて、産んだ後も母子ともに健康であるということでしょ うか?それまではつるんと赤ちゃんが出ることがすべてだと思っていましたが、産後が楽というのはお産もうまくいった証拠なのかなと考えるようになりまし た。まさに「お産は一日にして成らず」ですね。妊娠中からの努力がお産、そして産後の健康にもつながっているということだと思います。これは本当に今回の お産を通じて実感したことです。

最後になりましたが、先生のご多幸とご健康をお祈りし、いつまでも素敵な楽しいお産を続けられますよう期待しています。そしてこれからも末長いお付き合いができますようにお願いいたします。
手紙では書きつくせないほどですが、5月28日に戻りたいほど素敵な経験ができましたことを本当に感謝しています。

追伸: 美しいバラの花束のサプライズ、ありがとうございました。お産の時には出なかった涙が、安心したのか急に噴き出しました。うれしかったです!

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3人目の父親になって          北川 禎久09、6、27
遼が生まれて早くも1ヶ月が経ちました。朝比奈さん、三宅さんには大変お世話になりました。

過去にも自宅出産を検討していましたが、諦めていた背景がありました。今回、念願が叶い自宅出産(自然分娩)をすることになり、今までの2人を授かった時よりも素晴らしい感動がありました。
自 宅出産は、お父さんが湯を沸かし、障子の向こう側で待っているという裏方のイメージがしていました。今までは出産は妻が行い、自分は何も出来ないので、妻 に頑張れよという気持ちだけでした。実際、一人目は大分の病院で出産し、私が子供を抱っこしたのは1週間後、二人目は病院で立会い出産をしましたが、枕元 で額の汗を拭く事しかできませんでした。子供が生まれて「はい、お父さん写真撮って」と言われ急いで撮った記憶があります。それに比べ、今回は時間にも、 気持ち的にも余裕があり、妻も私もリラックスした気持ちで出産を迎えられました。
出産前の勉強会で呼吸法を教わった事で、実際に「ファーファー」の呼吸になった時、頭が出てきた状態がイメージでき「もうすぐ会える!」とワクワクしました。今回は私もしっかり参加し、妻と同様自分たちで産んだという気持ちになりました
そして、改めて女はすごいなと思いました。

昔は当たり前であった事が現代になり、いろんな事が変わってきました。出産もそうだと思います。人間が色々な事を経験し、何が一番良いか、どうあるべきかをを感じた時に、原点に戻る事が出来るのでしょう。
ラ イフスタイルも、都会の便利な生活をした人が、田舎の自給自足の生活を求めて移住する人もいるくらいですから、これも原点に戻って生活をする事が良いと思 うからでしょう。私もこういった生活に憧れ、いつかは叶えたい欲望があります。それまでに、今の生活で、いろいろな経験をし、何が自分に合っているか、自 分の求めていることは何かと考える時でもあると思います。
家族を持ち、皆が健康に暮らす事が一番の幸せであると感じるようになり、自分の健康も今まで以上に気を付けるようになりました。今回の出産でいろいろな事を考え直す良いきっかけになったと感謝しています。
皆様には大変感謝し、今後もこのように感じる人をどんどん増やしていって欲しいと思います。

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3人目で自分らしいお産を体験 高橋智子 H21年5月15日 (長文)
*病院で出産するのが怖い
「恐怖で体が震え出す」多くの人にそういう体験があるのかな、、、。病で苦しんだ経験はありませんが、私も自分の体のことで震えが止まらないほど恐怖を感じたのはお産でした。
私は、3人の子どもがいます。どの子の時も犬のように安産で、2人目、3人目は「本当にさっき産んだの?」と人から尋ねられました。そんな私ですが、3人目を産むのは本当に怖かった。
3 人目出産まではフルタイムで働いていたので、上の子二人の世話と家事に追われて自分のお腹の赤ちゃんのことなど考える余裕がありませんでした。3人目も安 産だ#ろうと高を括ってもいました。しかし、産休に入ったとたんに「自分の産む場所は本当にここ(産院)でいいのだろうか」と迷い出しました。上の子2人 をお世話になり、3人目ももう臨月。はちきれそうなお腹で毎週健診へ行く頃です。
自分の感覚としては「分娩そのものは怖くない」でも、「病院で産 むのが怖い」。新生児室には次から次へと産まれる赤ちゃん。その赤ちゃんを扱う看護婦さんの表情、手つき、母乳指導に対する産院の方針、産科医の言葉、薬 の使い方・・・。私は過去2回の出産で、自分で体験し、感じたことから、そこの病院が怖くて怖くてたまりませんでした。でも予定日はすぐそこ。病院を変更 できる保障もなければ、病院に頼らずに産める自信もありません。矛盾するようだけれど、できることなら波風立てずにここで産んでしまいたい。自分の感情に 蓋をして目を背け「私は安産だから大丈夫。」と考えるようにしました。でも、やはり心は正直です。その日もいつものように家族と夕食が始まりましたが、食 欲がなくて全く食べられない。食べなくては・・・と思うのですが、そのうち手足がガタガタと震え出しました。その瞬間は「この部屋そんなに寒いのかな?」 と思ったのですが、どうもそうではないらしい。夜になると子ども達に布団の中で読み聞かせをしますが、絵本の世界などとても楽しめず文字を声に変換してい るだけ。その時もやはりガタガタ震えています。体を休めたいので眠りたいのですが、感情が高ぶって夜中2時、3時になっても眠れない。どうにもできず、1 人居間に起き出して、毎晩のように自分と感性の合う出産に関する本を読みあさりました。家族と一緒にいると幾分気は紛れますが、話しなんて上の空。とても 笑うことなどはできません。それに下痢ばかり繰り返していました。主人には「明日は健診。(何の問題もないけれど)帝王切開にして欲しいと先生にお願いし てみる。」と泣きながら話したことを覚えています。上の子どもが通う保育園では、他のお母さんに分娩時の様子を聞きまわりました。「3人目なのに怖い。あ なたはどんな出産だった?」と。すると、出るわ出るわ・・・。安心しようと話を聴いてみたのに、ホラー映画のように信じられないことばかりを耳にし、ます ます落ち込んでしまいました(みなさん、昇華しきれない辛い思いをされていたのですね)。
そんな状況に耐えられず、自分の頼りなさを恥じながらも 実家に電話しました。「昼間、家に1人でいると怖くてたまらない。里帰り(同じ市内。3人目にして初めての里帰り)してもいい?」と。母は温かく「いい よ。」と受け入れてくれました。実家へ帰ってからはそれなりに忙しく日々のことを手伝いますが、やはり心の中は変わりません。そして私の症状もやっぱり変 わりませんでした。励ましても、叱りとば#
しても、食べない、笑わない、話さない、泣いてばかりの私に母が苛立ち、悲しみ、母の方が泣き出したこ ともありました。「なんでそんなことぐらいであなたはそんなに悩んでいるの?」と。もう30歳を超えているのに、不安いっぱいで眠れなくて、思わず母親の 布団に泣きながらもぐり込みました。
あの時のあのしんどさは何と表現すればいいのでしょう。日々のことができなくなる。今まで生理的に無意識に できていたことが、当たり前にはできない。「どういう風に食事をしていたのだろう。」「どうやって人と会話をしていたのだろう。」笑えない。息苦しい。身 の置き場がない。意識をどこに向ければいいのか分からない。体は病気ではないのに、なんだかボロボロでした。
そんな状態のまま、あの日も健診へ行 きました。自分自身がそのような状態であることを話す隙もなく健診は5分。あっという間に終了。もちろん帝王切開に・・・なんて切り出すことなんてできま せん。「順調ですよ。」と言われて帰りました。でも・・・私は全然順調なんかじゃない! 産めない! 怖い!
助産院へ行く

どう しようもなくなり、私は帰宅するなり電話帳をめくりました。「朝比奈助産院」。自分が意識できるかどうかくらいのところで、でも確かに「この人は正し い!」と感じていた助産婦さんに電話をしました。「自分でもよく分からないのですが・・・」と泣きながら自分の状態を大まかに話しました。すると「とりあ えず話を伺いましょう。」と言ってくださり、次の日、朝比奈助産院へと向かいました。私は市のファミリー教室でこの助産婦さんを存じ上げていましたが、あ ちらは私のことなど大勢の中の1人に過ぎません。初対面と言ってもいい私を自宅(兼助産所)に通し、2時間も私のために話を聴いてくださいました。それま で、誰に何を話しても全く気が晴れなかったのに、その助産婦さんはスルスルともつれた糸をほどくかのように、私の気持を解いて下さいました。
私が 読んでいた出産の本では『お産! このいのちの神秘 二万例のお産が教えてくれた真実』(吉村正) というのが印象に残っています。朝比奈さんは、この本 を書かれた医師のおられる吉村医院でご自身が出産されたということで、話がスムーズに、共通の認識・価値観をもって進みました。「やっとわかってもらえる 人に出会えた!」という安心感で、家に帰ると「やっと呼吸できる」と感じました。朝比奈さんには「べつに病院で産んでもいいけど、あなたはもうこの助産院 か、家でしか産めないわ」と断言され、私もようやく、本当にようやく「(医療に頼らず)自分で産む」覚悟をしました。(助産院では、点滴も分娩台もなく、 普通の畳の部屋に布団を敷いただけでの出産です。)よく助産院や自宅分娩をする人は「より良いお産をしたいから」とか「納得できるお産をしたいから」と おっしゃいますが、「すごいなあ。立派だなあ。」と尊敬します。私にはそんな考えは全くなく、むしろそんな自然な出産は怖くて嫌で、でも本当にどうしよう もなかったからでした。自分は、感覚も意識も知識も「自然なお産のほうがいい」と判断していたのに、「なにかあったら医療に頼りたい。緊急搬送はしてくれ るけれどそんなの遅い。」とどうしても決心がつかなかったのです。その本質は、自分の出産でありながら、人になんとかして欲しいと依存する自分でした。

助産婦さんは、今は「助産師」と名称が変更されています。ですが、私は「助産婦」にこだわります。女性が妊娠してから、食事・健康・学習を指導してくださ り、心配なことはないかと常に見守っていてくださいます。お産が無事に終わってからも、子育てのこと、更年期のこと、時には嫁姑問題までを心理的にサポー トしてくださいます(助産婦さんにも色々な方がおられるとは思いますが・・・)。女性の人生の伴走者であり、お産を助ける「助産・婦」さんです。病院出産 では私の意図、ペース、やり方、考えは尊重されることがほとんどない病院側主導でしたが、この助産院では、私と赤ちゃんの出産ペースに助産婦さんが横につ いていてくださるだけで、私が常に主でした。
なんやかんやで七転八倒。結局この朝比奈助産院には、出産10日前に変わりました。本当に大変でした が「案ずるより産むが易し」とはこのこと。分娩には3人の助産婦さんがついてくださるのですが、「みんなこんなに安産だったらいいのに」と言ってくださる ほどの「超!安産」でした。赤ちゃんには血の1滴もついていなくて、キラキラの湯上りのような顔をしていました。

生と死
結果は 安産でしたが、私は分娩時に母子どちらかが死ぬこともあるかも知れない・・・と、10日間ずっと覚悟をしていました。命あるということはまた、死もありま す。助産婦さんの指導の中に、「あなたはお寺に生まれたのだから、毎日、仏様に祈りなさい」というものもありました。おもしろいでしょ?私の実家は寺なの です。「人事を尽くして天命を待つのよ。」と。藁をもすがる思いで臨月を過ごしている私には、この言葉がスッと納得できました。そんな指導がなくても、保 育園の送り迎えの時には、自分の不安をお地蔵様に託して「無事に生まれますように」とお祈りするようになっていましたから。これが信仰か・・・と初めて深 く解りました。それまで寺に生まれながら、私は「お寺を運営するのも職業のひとつかなぁ」くらいに考えていました。
ですが、それも「人事を尽くし て」が前提でした。心の準備、体の準備、身の周りの準備、家族への準備、緊急時の準備、できることは全てやり尽くしました。本当に充実した10日間でし た。朝比奈さんからは私に「これを読むように」と2冊の本が渡されました。やはりケアのプロです。私の首から肩、背中を順に触り「あなたは安産ね」と大体 の予想をした後は、心のサポートを中心にしてくださいました。この本を読むことで、私の不安は激減しました。毎日心を込めて家事をし、仏様に祈り、食事を 整え、知識を蓄えました。その時にやれることは全てやりきりました。

いよいよ分娩。助産婦さん3人と私達夫婦は、夜の自然な暗さの中、部 屋のオレンジ色の小さな灯りをつけてずっと雑談していました。雑談の途中に、何度も陣痛がきますが、その度に助産婦さんが私の腰をさすってくださり、また 何事もなかったように私は雑談に加わります。これは分娩時間がとても短く感じられて楽しい時間でした。人に触られ温かみを感じることで、リラックスし、痛 みもこんなに和らぐのだということを知りました。いよいよ産まれる時には「痛いね」「がんばろうね」とひたすら共感し、励まし続けてくださる助産婦さん。 「泣いても叫んでもいいのよ。格好つけなくてもいいのよ。我慢しなくてもいいのよ。」と全部を受容してくださいます。安心して自分の弱さを出せるので、出 産に集中することができました。
病院では、緊張し、ちょっと甘えると看護婦さんに叱られ、この程度の痛みではなかったように思うのですが、この 時は「まだまだこれから痛みはやってくる!」と思っていた瞬間にもう赤ちゃんの頭が見え出しました。分娩台が無いので、膝立ちのまま大きなバルーンにもた れかかって、「縦系」のお産。これが重力に逆らわず、スルスルと、本当に産みやすかった。分娩台のあの性器をさらけ出しての屈辱的な体勢でないのも心から 安心でき、主人の他に誰が見ていても大丈夫なくらいでした。あの恐怖体験である会陰切開も全く必要なく、「いきまないで。ゆっくりゆっくり」と会陰保護の 技術を駆使しての素晴らしい助産技術。(日本伝統のお産婆さんの技術は現代の産科医療に変化するとともになくなりつつありますが、逆子でも産ませられる高 度なものだったようです。)「頭が出てきたよ」と朝比奈さんが私の手を生まれてくる赤ちゃんの頭へと導いてくれたので、そのまま「ひかる」の頭を触りなが ら生み出しました。頭が出てくると、もうあとは「つるん」と楽勝! へその緒をつけたままそのまま直接肌と肌をくっつけて「カンガルーケア」。自分でも拍 子抜けするほどの安産でした。赤ちゃんは生まれてくると大声で泣くものと信じていましたが、生まれてすぐ、母親がしっかりと抱いていると安心しきって静か な静かな時間が流れます。神聖な静寂な夜でした。

陣痛が本格的になってから主人が私の家族へ連絡を入れ、車で5分ほどの道をみんなで 走ってきてくれましたが、あまりの安産で間に合わず、生まれたてのひかるの体重を計っている頃に到着。私はすでに布団に横になり、朝比奈さんの子宮ケアを 受けていました。産後2時間、ずっと腹部をさすりながら、容態に変化がないか見守り続けていてくださいました。私にとっては、どんな高度な医療機器がある よりも人の温かな目と手のぬくもりが心強かったです。
幸いにも、私は何のリスクもトラブルもなく出産を終えることができました。これ以上幸せなことはないというくらいの感情を、第3子の出産で得ることができ、周囲の方々や、朝比奈さんとの出会い、そして神様に感謝です。
そうして、こんな至福の体験をできるようにチャンスをくれたのは、あの恐怖で体が震えるような辛い体験でした。一見、不幸のようにみえる出来事にも、そこ には学ぶことがあり、その苦しみから抜け出した時には大きな成長と喜びがある。私はこの第3子の出産で、自分の人生のステージが変わったことをはっきりと 自覚し、それまで生甲斐としていた職業も、子育てのためにしばらくお休みすることを決心できました。今は、子ども達がただ生きていてくれること、笑ってい てくれることに感謝する日々です。

私は、出産した後間もなく「ターミナルケア」に関心を持ちました。出産は苦しい体験とはいえ、多くの 場合はそのすぐ後に希望が待っている。しんどいことも、あの痛みにも、希望があることで耐えられる。「でも、これが病気だったら・・・」と思います。私は 頑張れるだろうか? ずっと毎日震えているのではないだろうか?あの助産婦さんたちのように「共感」一本で、深い丁寧なケアのできる方達がその時そばにい て欲しい。もしそうであれば、死への恐怖の淵にあっても、私はありのままの状態で、静かに人生を終えられるように思います。この出産で、私は「共感する」 ということの本当の意味を理解しました。今まで自分が「共感」だと思ってやっていたことは、まだまだ薄っぺらなものでした。でもそれは、共感してもらうと いう体験を通してやっと理解できたこと。いくら頭で理解していても実感としては分からなかったと思います。

生まれたら、必ず死ぬ。
人間、いつかは必ず経験する死。
死 を覚悟して命を生み出すことで、「死」が自分の日常になりました。できることなら、私は家で死にたい。家で生まれて、家で死にたい。(家で産まれるのはも う無理だけど。笑)例えば癌になったら、手術や抗癌剤治療よりも、できる限り在宅で緩和ケアを選ぶかなあと思います。大いなる宇宙の存在に「ひかる」の誕 生によって気付かされ、生も死も、ただ自然の一部分に過ぎないと考えるようになりました。より良く生きていきたいとは思うし、健康オタクだし、常に必死だ けれど、私は「生」に執着しないかもしれない。まさに「人事を尽くして天命を待つ」。朝比奈さんがポロっと発した言葉が何度も頭に浮かびます。
生きてゆくのに不都合なこと、苦しいこと・・・そんな出来事には、必ず今の生活や思考パターンを見直すようにとのメッセージが含まれているように思えてな りません。そう考えると自分自身がラクになるからかも知れませんが、そのトラブルから何を学び取り、どう生かしてゆくか? そのピンチを最大限生かせるよ う、常に感性を磨いておきたいなあと思います。そして、ピンチの時そこに必ずあるのは、温かな人達の存在でした。私は「大好きな人」がすぐにできてしまう 質なのですが、なんだか「人運」?には恵まれていて、人とのご縁ですぐ事態が好転し、結果ありがたいことばかりです。

朝比奈から 高橋智子さんへ

本当に素晴らしい文章ありがとうございました。
あ なたが最初に私の所にいらっしゃったときどうしてそんなに体調が悪いのかすぐ分かりました。あなたは心の中で自然な出産がしたいと思っているし、また自分 でそれをしたいと思っていたのに、自分の心と反対な方向へ行こうとしたからか、あなたの体に変調が来たのだと思いました。ですから自分で自分のお産を真剣 に見つめ、自分らしいお産にたどりついて本当に良かったですね。
そうして出産は女性の修行でもあり、脱皮だとおもいます。さなぎから本当に素晴らしい蝶に脱皮し、何が真実で何が正しいかを見る目が育ったのではないでしょうか。
女性は本当に自然に生きたいという感性が備わっているし、また、女性は自分で産む力もあるはずです。それに気づいた智子さんは素晴らしく思います。そうして一回りも、二回りも素晴らしく魅力的になった智子さんはまぶしい感じがします。
これからもどうかいつまでも愛ある家庭をつくっていってください。
本当にありがとうございました。
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10ヶ月で逆子が直って自然分娩
A.N 2008年6月

夏の暑い日に、そろそろ、、、と思っていた私のお腹に小さな命を授かりました。それはそれはとても幸せな感じの日でした。まず悩んだことは、「どこで」出 産するかということでした。上の子は実家近く京都の助産院で出産するつもりでした。(実際は実家で産まれてしまいましたが)けれど、今回は上の子も保育園 の都合上、里帰り出産はできない状況。「病院では絶対に産みたくない」「自然なお産がしたい」という思いを強く持っていたため、自宅出産しかないかと思い ました。しかし家族に不安そうな表情を見せられました。しかたがなく畳の上での出産は無理かと半ばあきらめかけていた時、相談した助産婦さんに「朝比奈助 産院」を紹介してもらいました。初めての健診で「朝比奈助産院」を訪れた時、先生のサバサバとした口調に少し驚きました。妊婦健診は働いていた私の都合を 聞いて土曜日にしてもらえたのが、当時本当にありがたかったです。仕事中心の生活の中で、お腹の命を一番に考えなければならない事は頭でわかっていても、 やはり目の前の仕事ばかり優先せざるを得ない日々を送っていました。そんな時先生に、「仕事をしているとどうしても仕方がないわよね~でもね、赤ちゃんを 守れるのはあなたしかいないのよ。」と声をかけてくださいました。最初に、仕方がないわね。。。といってもらてて救われた思いをしました。すぐにでも赤 ちゃんの為に仕事を休みたい、でもそれを許せない自分との葛藤の日々でした。お腹の小さな命は、私の思いを見抜いていたのか、しっかりと逆子という形で意 思表示をしてくれました。産休に入った9ヶ月なってもお腹の中でしっかりと頭を上にしていました。お腹への話しかけ、体操、家でのお灸、半身浴、足浴、鍼 灸通い、整体、ボディートーク(身体をほぐす運動)など、それでも治りませんでした。あれこれしているうちに、これは赤ちゃんの意思表示なのだから、それ に従おうと思い始めました。10ヶ月に入った時、先生に「良い鍼灸の先生がおられるのだけれど、試してみる?」と声をかけてもらいました。もちろんお願い しました。鍼灸院のお灸はとても熱いので、本音は嫌だったのですが、お腹の赤ちゃんのため嫌とは絶対に言えません。
でもその鍼灸の先生のおかげで、「あっ」という間に逆子が治ったの
で す。一瞬の出来事で何が起こったのか、さっぱりわかりませんでした。(至陰、三陰交にお灸、お腹に針を数カ所してからお腹の上に手当て赤ちゃんをゆっくり 1回転)エコーで見てもらうと確かに治っていました。「魔法」をかけてもらったようでした。無事逆子が治ったのは、先生にあれこれ手をつくしていただいた おかげだと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです
そしていざ出産の日になりました。陣痛が10分おきくらいの時に、助産院に到着しました。 「ちょっと散歩してきたら?」と言われ、助産院の隣の神社まで夫、子、実母の4人で散歩にでかけました。朝の澄んだ空気が大変心地よかったです。散歩が良 かったのか、陣痛はどんどん進んできました。一人目の出産の時は、実家で産まれてしまう予想外の出来事に、わけもわからず無我夢中で産んだので、今回は赤 ちゃんを感じながら産むことができたら素敵だろうな。。。と考えていました。けれどやはり軟弱な私は赤ちゃんが降りてくるのを感じるよりも、次々に押し寄 せる陣痛の痛みをなんとか乗り越えるのがあ精一杯でした。それでもずっと側に先生がいてくださる安心感がとてもありました。信頼できる人たちに囲まれての お産は、出産直後に「ありがとう」の言葉では足りないくらい感謝の気持ちで一杯になりました。私のもとに元気に産まれて来てくれた赤ちゃん、それを支えて くれた先生方、そして何より陣痛が始まったからずっと横にいてくれた夫、ずっとそばにいてくれたので、「二人で産んだ」という気持ちが強く、心から「あり がとう」が言えました。私を支えてくれている周りの人みんなのおかげで、無事出産を終えることができ、なんと幸せなんだろうと感じています。私にとって幸 せなお産とは、感謝の気持ちで一杯になるお産なんだと思いました。少し怖くて出産に立ち会えなかった上の子も、いまでは「次、お母さんのお腹の赤ちゃんが きたら一緒にいるわ!」と言っています。次があるかどうか分かりませんが、次があっても良いなあ~と思います。
産後も手厚く診ていただいた先生、本当にありがとうございました。もし次があるとしたら、また是非お世話になりたいと思います。

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私が自然お産に興味を持ったのは、長男の病気がきっかけでした。
M.0 (2008年5月出産)
長男は私のお腹にいるときの成長過程で両側の精巣が正しい位置に下りてこず、捻転していたようです。
原因不明でとても珍しいらしく、大学病院でいろいろな検査、そして最終的に直接お腹にカメラを入れて探したのですが、もう機能しなくなっていたようで手術で両側の精巣を除去しました。
精巣がないということは、まず子供を作る機能がないこと。そして二次成長がこないため、ホルモン剤を投与し続けなくてはならないということです。
私は自分を責めました。
どうしてこんなことになったのだろうと、悲しくて悲しくて一人になれば泣いていました。

その頃、講演会で助産婦の朝比奈先生にお会いしました。
その講演会で見た助産院でのお産の写真はどれも幸せそうで、私が経験した病院の出産とは違うもののようでした。

講演会が終わってから先生に直接お話することができました。
母の前や主人の前でも泣いてはダメだと思っていた私は、先生に聞いてもらえたことで涙が止まりませんでした。

先生は私の手を握り「大丈夫、大丈夫」
走り回る長男を見て「元気に育っているじゃない、だから大丈夫。」
と言ってくれました。

本当にそう思えました。
「元気に育っているから大丈夫だ。」

大学病院のドクターにも、また子供を産んでまたこうなったら、、、と不安な気持ちを相談したら「怖がらないで、大丈夫だから絶対産みなさい。」と言ってくれ、もう一人産もうと決意しました。

そこから自然なお産について勉強し始めました。
私が納得いく妊娠、出産を経験することで、子供の出来ない長男にとって一番の命の教育になるのではないか、そして自分を責めていることから抜け出せるんじゃないかと考えました。

そして希望通り妊娠しました。

最初は産婦人科にかかりました。
ニュー スでも話題になっている通り私の住む地域でも産科が少ないのですが、病院へ行って驚きました。完全予約制でも1時間待つのは当たり前、待ち合い室では椅子 が足りないほどの人の多さ、やっと診てもらえると思った診察時間は5分ほど。待ち合いから見える新生児室では、生まれたばかりの赤ちゃんがずらり。そして まだ妊娠8週の私へ「来週までにウチで産むのか産まないのか返事してや~」との一言。
”ここでは絶対産みたくない。”

そうして次に週、紹介状を書いてもらいたいとお願いすると「やっぱりここで産ませて下さいって言われても断りますから!」
「この滋賀県の産科の状況分かっての?」「道端で産むんか?」といわれました。あらためて、この病院では産みたくないと思った自分を信じました。

そして朝比奈助産院へ通い始めました。
助産院での健診はいつも1時間ほど先生とお話したり、ときにはオイルで手をマッサージして下さったり、ハーブティーを出して下さったり本当に心地よいものでした。
驚いたことに、基本的には内診もエコーもせず、先生が木の筒のようなものをお腹に当て、赤ちゃんの心音を聞くのです。
先生はこう言いました。
「何もしません。産むのはあなただから。」
その言葉を聞いて、私は今まで自分のお産ですら他人まかせだったことに気がつきました。

安定期に入ってからは太郎坊の山をせっせと登りました。
最初はつらかった階段730段も、慣れれば気持ちのいいものでした。それからスクワットにストレッチ、お灸に半身浴と、産まれてくる赤ちゃんのことを考えながらいろいろして過ごしました。
臨月には毎日2時間を目標に、山登りと散歩をしました。
そして予定日の3日前、5月7日の朝から少しお腹が痛み始めました。無事に産まれますようにと、最後にもう一度、太郎坊山へお参りに行き、ゆったり過ごしました。夕方には痛みも強くなり、8分間隔になっていました。そこへ先生が来てくださり、自宅で診察を受けました。
それから助産院へ行く準備をし、午後8時ごろ入院しましいた。

和室の布団の上でバランスボールに寄りかかり、先生ともう一人の助産婦さんと笑って話をしながら、陣痛の波が来たら長く細く息をはき、波が過ぎるのを待ちました。
そうしているうちに話もできないくらいの痛みへと変わりました。
痛くてつらくえて呼吸もちゃんとできなくなるそうな時、先生達はずっと側で腰をさすってくれ、ずっと優しい声をかけてくれました。

そして陣痛に合わせたタイミングでいきみ、主人へつかまり、立て膝という体勢でファーファーという呼吸。
先生に言われて手を伸ばすと、そこには頭が、、、。
もう少しで合える!と思ったその時、ポロっと動物のように産まれてきました。まさに主人と二人で取り上げたと言う感じでした。
どこも切れないよに誘導してもらったおかげで、赤ちゃんには血ひとつついていない湯上がりのようでした。
午後10時18分、3078gの元気な男の子でした。

よるだったので長男は寝てしまっていたものの、出産後はそのまま家族が一度も離れることなく4人で眠りました。
朝起きるともう自然に家族4人でした。
そして自然に逆らわないお産をした私の体はどこも痛くなく、数時間前に産んだと思えないほどでした。

点滴もなく、分娩台もない、畳の上でお産するということ。
医療行為なしで自然に産むためには、自然な体が造られていないとできないこと。

私にとって、本当に人生観、価値観を変える経験でした。
多くの人々に感謝です。

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色々なことを乗り越え幸せなお産を。(Sさんからお手紙)
この度は本当にお世話になり、私の夢を叶えて下さりありがとうございました。
思い起こせば1年前 の冬、自宅出産という、なんともすてきな響きを実現できるかもしれない!と緊張の中、助産婦さんの診察を受けていました。そもそも助産院などの自然なお産 を興味を持ち始めたのは色々な人の話をまとめると自宅や助産院で家族と共にリラックスして赤ん坊の産まれてくるのをゆっくりと待つ、その時が素晴らしい、 医療に頼らずに自然なお産が出来たら感動的だった、と幸せそうに語る女性達に出会ったからです。それまでは痛いだの、もういやだ!だの辛いイメージしか聞 いた事がなかったので、本当に新鮮でした。人類が生まれてから今日まで辛いだけのものだったらこんなには続かなかったと思います。そのヒントが自然分娩に あったと発見しました。
又結婚を機に”生きる上で必要なものは自らの手で作る”という理想を掲げて田舎で古い民家を借りて菜園したり鶏や山羊を 飼ったりしていますの、お産も自然な流れに任せたかったのです。でも果たして私に可能なのか!?と調べていきますと何と昔ながらの家事労働や畑仕事がお産 を軽くすると言うではありませんか。洗濯板をゴシゴシして犬の散歩も坂道を探して行きました。確かに農家の伯母は“お産なんて、堅いウンチを出すようなも んや、田んぼ仕事の方がよっぽどきつかったわ”と話してました。現代の様式、暮らしがいかに身体を使っていないかですね。”お産なんてポーンよっ!“言え るようになりたくて頑張って動いていたのですが、、、
後期の検査で血液の異常が見つかり、即、血液専門の病院へ行くように命じられました。こち らの先生も深刻なご様子。毎週、血を抜かれること数回、全く結果が変わらずもう臨月に。この間に分かった事と言えば、急性白血病ではないということ。そ、 そんなすごい病名がこう簡単に出てくることに驚きました。でも夫は骨髄バンクの登録書を書いています、、、我が家が暗闇に包まれかけている所にもうひとつ 赤ちゃんの命が危ない!という脅かしまでもが、、、溶連菌の登場です。
もうこれで役者は揃いました。産婦人科の医者の話では陣痛が来たら私に抗 生物質を投与し続けるそうです。私は分娩台にのって、血管確保とか言って腕に管をさして産むことだけはしたくなかったのに、考えるだけで恐ろしい姿です。 この田舎で自然にできるだけ近づける暮らしをしようと思っていたのに、うまれたての赤ん坊にも、抗生物質を打つなんて、本当にこれでいいのか、と考えまし た。確かに万が一のことでこの命を失ったら、現代の医学を拒否したからだ!と言われるでしょう。又、自分本位の出産だけをのぞんだからだ!とも言われそう です。でも私は人間の力で自然の流れを変えようとするには疑問をもっていますし、どうにもならないことの方が多いと思っています。 今回この問題は身を もって決意する機会になりました。
慣行農法として予防という名の農業や除草剤を撒き散らしていたお百姓さんが本当にこれでいいの?と疑問をもっ た時、自分の周りにある全てのことを考えて結果そのまま続けるのか、それとも自分一人でも全てに犠牲を払うことになってもやり方を変えるのか、私は後者を 尊敬しますし、そういう人を応援したいですし、そういう勇気のある人間が増えていくことで世の人の考えも少しずつ変わり始め、やがて世界を善の方向へ導い てくれるのだと思ったのです。でも をの人が認められるには時間がかかるようです。
とてもたいそうなことですが、私は”自然の法則”に従って産 む、覚悟をしました。2月、3月と本当にドン底を彷徨っていましたが、3月下旬、この覚悟をもって先生宅へお伺いした時のことを忘れません。先生と李先生 のお話とお人柄によって、私達はなんだかとてもちっぽけなことを悩んでいたかも!?と思われる程、それまでに出会った人々と反対のことをおっしゃって下さ いまして、とても安堵しました。吉村先生の本の中に”産婦の皆さん医者に脅かされてはいけませんよ”と書かれていました。”あとは気の問題や。少しでもお じけづいたら負けや。私は何が何でも元気に産んでみせる!と。暗闇に光が差すとはこういう状態なのだ、と初めて実感しました。その光を与えてく下さったの は先生です。私はその光に向かってただひたすら歩き出しました。
予定日から2週間も遅れることにより私はそれまで心配事を全て吹き飛ばしこの命を産むことだけに集中することができました。これも偉大な自然の力、神から与えられた、貴重な時間だったことをひしひしと感じています。
” ポーン”と産むつもりだったお産は結局子宮口が全開のまま2日も経ち太郎坊さんに2度も登ることになりました。簡単に産まれていては得ることのできない経 験の数々。先日太郎坊さんへお礼参りと称しておんぶして一段一段登らせて頂きました。その時夫があ“あの時よりウーンと楽やろう?”と聞きましたが私は” 今の方がしんどい、、、”と10kg近くなった赤ん坊をおぶって汗だくになり乍ら答え夫は”え!?本当?”と意外な返事に驚いていました。先生の”お産が 全ての始まり。目の前にあることを越えなさい。”のお言葉をかみしめています。頂上までまだまだだとがっかりするより、一段一段を着実に登り、気が付くと こんなに素晴らしい景色を見渡す所まで来た!と清々しい汗をながせるような人生をおくりたい。
母乳がでなくなった時、赤ん坊はミルクを欲して泣 きました。かわいそうだからという甘い気持ちにムチを打ってくださったのは先生でした。私は自分の間違いに気付かぬままこの子を育ててしまう所でした。あ んなペシャッとなえてしまったはずのオッパイが今もこの子を大きくしてくれて、この身体の神秘に驚かされっぱなしです。
どんなことでも、どうに かして越えてこれたという自信がつきました。これはすごい財産であり、有り難いことです。先生本当にありがとうございました。今、赤ん坊との幸せな時間を 過ごせることは、助産院でのお産を通し、先生から大切なことを教えていただいたからだと声を大きくして私は言います。
本当に”幸せなお産”でした。
H19年12月末日
H拝

お姉ちゃんと一緒に赤ちゃんの沐浴(T.M)
お産後4日目今日はお母さんとお姉ちゃんと一緒に沐浴です。
赤ちゃんはお母さんのお風呂が大好きのようで気持ち良さそうでした。

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自宅で産みました(T.M)
予定日より2週間早く自宅で2人目を産みました。(一人目も自宅出産)
赤ちゃんは少し小さかったけれど本当に元気で産まれた直後からおっぱいをしっかりとすってくれてとてもびっくりしました。

お母さんとお父さんの誕生です。(S.M)

長い陣痛を乗り越え無事に我が子を抱く事ができました。
本当に出産には感動しました。
僕がお父さんだよ。

陣痛中お散歩(S.M)
陣痛がまだ8分間隔でした。
近くの神社の中を夫と一緒にお散歩をしました。

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お母さんの沐浴
自宅出産して4日目お母さんも元気です。
赤ちゃんをお風呂にいれました。
赤ちゃんはお母さんの風呂が気に入った
みたいで本当にゆったりとリラックスした
お風呂でした。
この子はお風呂好きかも知れません。

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3人目で自分らしいお産を体験(2) 高橋智子
助産婦さんは、今は「助産師」と名称が変更されています。ですが、私は「助産婦」にこだわります。女性が 妊娠してから、食事・健康・学習を指導してくださり、心配なことはないかと常に見守っていてくださいます。お産が無事に終わってからも、子育てのこと、更 年期のこと、時には嫁姑問題までを心理的にサポートしてくださいます(助産婦さんにも色々な方がおられるとは思いますが・・・)。女性の人生の伴走者であ り、お産を助ける「助産・婦」さんです。病院出産では私の意図、ペース、やり方、考えは尊重されることがほとんどない病院側主導でしたが、この助産院で は、私と赤ちゃんの出産ペースに助産婦さんが横についていてくださるだけで、私が常に主でした。
なんやかんやで七転八倒。結局この朝比奈助産院に は、出産10日前に変わりました。本当に大変でしたが「案ずるより産むが易し」とはこのこと。分娩には3人の助産婦さんがついてくださるのですが、「みん なこんなに安産だったらいいのに」と言ってくださるほどの「超!安産」でした。赤ちゃんには血の1滴もついていなくて、キラキラの湯上りのような顔をして いました。

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生と死
結果は安産でしたが、私は分娩時に母子どちらかが死ぬこともあるかも知れない・・・と、10日間ずっと覚悟を していました。命あるということはまた、死もあります。助産婦さんの指導の中に、「あなたはお寺に生まれたのだから、毎日、仏様に祈りなさい」というもの もありました。おもしろいでしょ?私の実家は寺なのです。「人事を尽くして天命を待つのよ。」と。藁をもすがる思いで臨月を過ごしている私には、この言葉 がスッと納得できました。そんな指導がなくても、保育園の送り迎えの時には、自分の不安をお地蔵様に託して「無事に生まれますように」とお祈りするように なっていましたから。これが信仰か・・・と初めて深く解りました。それまで寺に生まれながら、私は「お寺を運営するのも職業のひとつかなぁ」くらいに考え ていました。
ですが、それも「人事を尽くして」が前提でした。心の準備、体の準備、身の周りの準備、家族への準備、緊急時の準備、できることは 全てやり尽くしました。本当に充実した10日間でした。朝比奈さんからは私に「これを読むように」と2冊の本が渡されました。やはりケアのプロです。私の 首から肩、背中を順に触り「あなたは安産ね」と大体の予想をした後は、心のサポートを中心にしてくださいました。この本を読むことで、私の不安は激減しま した。毎日心を込めて家事をし、仏様に祈り、食事を整え、知識を蓄えました。その時にやれることは全てやりきりました。
いよいよ分娩。助産婦さ ん3人と私達夫婦は、夜の自然な暗さの中、部屋のオレンジ色の小さな灯りをつけてずっと雑談していました。雑談の途中に、何度も陣痛がきますが、その度に 助産婦さんが私の腰をさすってくださり、また何事もなかったように私は雑談に加わります。これは分娩時間がとても短く感じられて楽しい時間でした。人に触 られ温かみを感じることで、リラックスし、痛みもこんなに和らぐのだということを知りました。いよいよ産まれる時には「痛いね」「がんばろうね」とひたす ら共感し、励まし続けてくださる助産婦さん。「泣いても叫んでもいいのよ。格好つけなくてもいいのよ。我慢しなくてもいいのよ。」と全部を受容してくださ います。安心して自分の弱さを出せるので、出産に集中することができました。
病院では、緊張し、ちょっと甘えると看護婦さんに叱られ、この程度の 痛みではなかったように思うのですが、この時は「まだまだこれから痛みはやってくる!」と思っていた瞬間にもう赤ちゃんの頭が見え出しました。分娩台が無 いので、膝立ちのまま大きなバルーンにもたれかかって、「縦系」のお産。これが重力に逆らわず、スルスルと、本当に産みやすかった。分娩台のあの性器をさ らけ出しての屈辱的な体勢でないのも心から安心でき、主人の他に誰が見ていても大丈夫なくらいでした。あの恐怖体験である会陰切開も全く必要なく、「いき まないで。ゆっくりゆっくり」と会陰保護の技術を駆使しての素晴らしい助産技術。(日本伝統のお産婆さんの技術は現代の産科医療に変化するとともになくな りつつありますが、逆子でも産ませられる高度なものだったようです。)「頭が出てきたよ」と朝比奈さんが私の手を生まれてくる赤ちゃんの頭へと導いてくれ たので、そのまま「ひかる」の頭を触りながら生み出しました。頭が出てくると、もうあとは「つるん」と楽勝! へその緒をつけたままそのまま直接肌と肌を くっつけて「カンガルーケア」。自分でも拍子抜けするほどの安産でした。赤ちゃんは生まれてくると大声で泣くものと信じていましたが、生まれてすぐ、母親 がしっかりと抱いていると安心しきって静かな静かな時間が流れます。神聖な静寂な夜でした。
陣痛が本格的になってから主人が私の家族へ連絡を入 れ、車で5分ほどの道をみんなで走ってきてくれましたが、あまりの安産で間に合わず、生まれたてのひかるの体重を計っている頃に到着。私はすでに布団に横 になり、朝比奈さんの子宮ケアを受けていました。産後2時間、ずっと腹部をさすりながら、容態に変化がないか見守り続けていてくださいました。私にとって は、どんな高度な医療機器があるよりも人の温かな目と手のぬくもりが心強かったです。
幸いにも、私は何のリスクもトラブルもなく出産を終えることができました。これ以上幸せなことはないというくらいの感情を、第3子の出産で得ることができ、周囲の方々や、朝比奈さんとの出会い、そして神様に感謝です。
そうして、こんな至福の体験をできるようにチャンスをくれたのは、あの恐怖で体が震えるような辛い体験でした。一見、不幸のようにみえる出来事にも、そこ には学ぶことがあり、その苦しみから抜け出した時には大きな成長と喜びがある。私はこの第3子の出産で、自分の人生のステージが変わったことをはっきりと 自覚し、それまで生甲斐としていた職業も、子育てのためにしばらくお休みすることを決心できました。今は、子ども達がただ生きていてくれること、笑ってい てくれることに感謝する日々です。
私は、出産した後間もなく「ターミナルケア」に関心を持ちました。出産は苦しい体験とはいえ、多くの場合はその すぐ後に希望が待っている。しんどいことも、あの痛みにも、希望があることで耐えられる。「でも、これが病気だったら・・・」と思います。私は頑張れるだ ろうか? ずっと毎日震えているのではないだろうか?あの助産婦さんたちのように「共感」一本で、深い丁寧なケアのできる方達がその時そばにいて欲しい。 もしそうであれば、死への恐怖の淵にあっても、私はありのままの状態で、静かに人生を終えられるように思います。この出産で、私は「共感する」ということ の本当の意味を理解しました。今まで自分が「共感」だと思ってやっていたことは、まだまだ薄っぺらなものでした。でもそれは、共感してもらうという体験を 通してやっと理解できたこと。いくら頭で理解していても実感としては分からなかったと思います。 つづく、、、

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3人目のお産を家族全員で A.H
この度は家族全員が一生忘れることの出来ないすばらしい感動体験、、、出産の場を共有させて頂けて本当に有り難く幸福でした。家族の絆がとても深まった様に感じています。
当初は主人も中3の長女も怖くて立ち合えるが自信が無い(、、、正直な感想です。)と言っておりましたが、三女はちゃんと家族全員が揃っている日曜日の深 夜に産まれて来てくれました。主人に支えてもらい、長女の手を握り、小3の次女がずーっと腰をさすってくれました。大雪の中、助産院駆け込み窓から見える 雪景色を美しいなあと時折り思いながら長い陣痛を先生方や家族と乗り越えさせて頂きました。やっと頭が出て来てからは全員で「ファーッ、 ファーッ、、!!」の大合唱、、!!次に肩が出て、先生に取り上げてもらい元気な産声が聞けた時には安堵感と感動で涙があふれでました。三人目にして初め て出産に立ち合えた主人が男泣きしていました。本当に神聖な出産と言う場に家族全員を立ち合わせて下さった神様と三女に心より感謝しております。
そうしてもうひとつ嬉しかったことは、出産後に中3の長女が「私ね、初めてお母さんのこと可愛いいと思ったわ、、。」と言ってくれた事でした。丁度、思春 期の頃であり、受験生でもあった彼女を私は厳しく接してきてしまい、よくけんかもしてしまう様な時期が続いていた頃だったので、私は嬉しさにまたしても泣 けてきました。その後彼女は本当にによく家事を手伝ってくれる様になり親子関係も少しずつ良くかわっていきました。
今回の出産で本当に多くの宝物をいただきました。家族全員で新しい生命を大切に育んでいきます。
本当にありがとうございました。

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私の助産院での出産  T,M
初めて妊娠した時は病院で出産するのがあたりまえと思っていました。バースプランなんて言葉も知らず病院の方針なんて気にもしないでただただ病院に言われるままの妊娠。出産でした。妊娠中に運動の必要性を知らず、出産の時に呼吸法も知らないままでした。
分 娩台で足をしばられ、足がつり、陣痛と同時に手で子宮口を広げられ、過呼吸で苦しいのに酸素を吸わされとてもしんどい出産でした。やっと産まれて赤ちゃん は「産まれましたよ」とちらっと見ただけで新生児室につれて行かれ、立ち会った主人もすぐ分娩室から出されて出産の感動も味わう時間もありませんでした。 結局我が子を見たのは昼の12時半に産まれて翌朝、ガラス越しにでした。その次の日の朝やっと5分間だけおっぱいを吸わせられました。
それでも、それが普通、あたりまえだと思っていました。
初めての育児が始まり不安と心配の毎日でした。
長男は小柄で体重は増えていたけど誰からも「小さい」と言われ。私のおっぱいは、張らなかったので足りているのかとても不安でした。おっぱいだけで育てていたので量が見えず、ミルクを足そうにも飲んでくれずとても悩みました。
そんな時インターネットで「お産&子育てを支える会」を知り、A助産婦さんの所でべビーマッサージに行きました。その時、おっぱいはそれでいいのよ。強く言ってもらいすごく安心しました。本当に救われて気持ちでした。
そして初めて自宅や助産院での出産を知りました。
2人目は2才差で欲しかったので次は絶対に病院では産まない!!と強く思いました。
ベビーマッサージに行った時A助産婦さんが自宅で取り上げたという赤ちゃんが来ていてとても愛らしそうに抱いているのを見てうらやましく思ったからです。
朝比奈助産婦さんも「取り上げた子は孫のように可愛い」と言って下さったけど、あの時のA助産婦さんの顔を思い出すと本当にそう思ってくれているとうれしくなります。
2人目は希望どうり2才差で妊娠しました。
朝比奈さんのところでの健診はとてもリラックスして出来て楽しみでした。妊娠中の運動の必要性、妊娠中から呼吸法の練習、出産のイメージトレーニング。
気持ちも身体も出産に向けて少しづつ整えられました。そろそろ産まれて欲しいので、朝比奈さんに言われた通り山を登り(八幡山)ウオーキング、スクワット、と頑張りました。
陣 痛が始まってからも。近くをウロウロと散歩をして陣痛もまぎらせたし、あまり陣痛に苦しんだと言う感じがしないまま、夜中12時に入院して午前1時21分 無事に女の子が産まれました。夜中の出産でしたが、主人、長男、実母に立ち会ってもらい、長男は私の手をにぎってくれたり、お茶を飲ませてくれたり、
フウーフウーと一緒に呼吸法をしてくれたりとても頼もしかったです。
出産に立ち会って産まれるところをを見ていたせいか長男は妹をとても可愛がってくれます。
出産後
産まれたての我が子を胸に抱いてその横で主人と長男がにこやかに赤ちゃんを見ていた。その時が本当に幸せな時間でした。
本当に自分の力で産んだという自信がもてました。
産 後も一人目の時とはくらべられないくらい体も元気でおしりも切っていないので、あの痛みもなく、楽に過ごせました。入院中は赤ちゃんと2人で静かに、ゆっ くり過ごせ、おいしい食事をいただいてとても、贅沢なケアを受け、たくさんの中の一人の患者という感じではなく、一人の女性として大切に扱ってもらえたと 感じました。
長男が気になるので早めに退院した後も訪問して頂き、赤ちゃんも私もしっかりケアーしてもらって大満足でした。小さい不安もゆっくり じっくりと話しを聞いてくれて、これからの育児で困ったり悩んだりしてもとても頼もしい味方がいてくれるのだと思うと安心してゆっくりと子育てが出来そう です。

本当にありがとうございました。
今後も子育てに悩むことも多いと思います。
これからも、宜しくお願いします。

my birth story Caitlin Keelan

Taiyo was “due” on the 5th anniversary of my arrival in Japan. I often wonder had I been in my home country would I have found my way to homebirth?

Homebirth chose me in a sense; I did not seek it out from the start. Faced with the prospect of giving birth in a foreign country I made it my job to educate myself as thoroughly as possible. I spent long nights on the internet and dropped a considerable chunk of cash on books thanking my lucky stars for the recently-launched Amazon Japan. Initially I went to a big urban teaching hospital hoping for up-to-the minute practices and the chance to consult with English-speaking medical staff. My first questions were about freedom of movement in labour. It became clear immediately that active birth was not going to be a possibility here. When I pressed the OB for options he went so far as to phone a colleague and explain that he had “a foreigner here who wants to give birth on all fours” –did they do that kind of thing?

I continued my own research. Contact with an English-speaking doula in Kobe led to conversations with midwives in distant towns and a recommendation from a friend finally led to independent midwives. The first one I met Kumagaya-san cheerfully explained the entire set of options: hospital birth clinic birth (ranging from hospital-like maternity clinics to midwife-run birth centers) or homebirth. The vast majority of hospital and clinic births in Japan are managed according to the western medical model; even the traditional avoidance of painkillers has begun to give way to the new trend of “pain-free” birth. After meeting with Kumagaya-san I had narrowed my choices down to a couple of clinics I hoped to visit. I spoke with another midwife in the meantime who recommended I speak with Junko Asahina who not only lived in the next town over (!) but also spoke English (!!).

I met with Junko-san and her husband Dr. Ri both sixtyish on a chilly day in February; they had the fireplace going in their living room and our conversation stretched out for hours. Given my previous experience with Japanese doctors I was apprehensive about having Dr. Ri present. To my delight they both applauded my interests in natural childbirth yoga and nutrition and it was in fact he who first chimed in recommending homebirth. I thought that it would be a challenge to convince my husband as I’d already had trouble expressing to him all that I’d been learning about natural birth. They immediately offered to speak with him as well; we all met a couple of weeks later and everything clicked. I registered for prenatal checkups at a nearby hospital that does homebirth backup and we had a couple of private prenatal classes with Junko-san.

I was nervous about the idea of homebirth at the beginning mainly because we lived in the countryside with a drive to the nearest hospital. Our discussions with Junko-san however brought us to the idea of both Toshio and I
taking responsibility for the life I carried in me to protect it on its journey and see it into the world. Specifically at the sacred passage from the womb into the outside world we were making a decision not to place this responsibility in the hands of “experts” but to trust in nature regardless of the outcome. This was an obvious conclusion to Toshio already as someone who thinks and speaks very frankly about the realities of life and death. It was a more conscious process for me and a decision that gave me a great peace once it was settled in my mind. It was at that point that my fears about childbirth began to dissipate.

I also attended “Mami House” a monthly gathering for pregnant moms and moms with babies: a nominal fee for a lunch prepared by volunteers and the chance to relax and chat with other moms and consult with volunteer midwives. I had never seen so many babies in one place!

The weeks flew by; my mother arrived from Canada the summer was unusually wet and cool. That arbitrary date came and went and as the days crept by we wondered if we would still be able to have a homebirth; Grandma-to-be wanted him to hurry up as her visit was for a limited time.

People told me that once I felt the baby’s activity decrease the time was near. One Friday afternoon he was moving more than I’d ever seen; Grandma and I sat and watched my belly for ages. I guess that puts today out of the question I thought.

That night we went for okonomiyaki and the restaurant staff good-naturedly scolded me for venturing out of the house at such a late date. We got home around 9:30 and I took a long walk with Michiyo: a summer evening on a quiet road surrounded by ricefields frogs and insects singing all around us.

Back at home I wasn’t sitting down 5 minutes when I felt the first contraction just before 11pm. Grandma grabbed a pen and paper to time them; I went outside to tell Toshio who was snoozing on the deck. I went to the toilet had another contraction and my water broke. We called Junko and she said “ok seems fine call me back in an hour or so”. I had prepared a room on the first floor but my first instinct was to get in the shower. All I wanted was to feel water on my back. Contractions were down to 3 minutes already; only about 20 minutes had passed since the first one. Someone called Junko-san again and she was on her way.

I stood in the shower: an old-fashioned Japanese bath room an anteroom with sinks/towel racks/cupboard and the bath/shower room itself with sliding doors overlooking the river below. I faced out that sliding door and gripped the railing. Toshio stood to my left in his boxers holding my hand and the showerhead; Junko was at my right quietly encouraging me and occasionally helping me slow down my breathing. My mother was there too at some point and in one of the photos she took I was actually smiling! I stood until I couldn’t any more then I went down on all fours. Someone had the brilliant idea of bringing in the birthing ball and I leaned on that for the rest of the time. I was on another plane at this point and do not recall much other than some small sensory details. My least favorite scratchy towel –one I had set aside for the birth because I knew it would be unusable after– was spread over the ball for me to lean my face on. My husband stepped out for a quick break and came back smelling of tobacco; I snapped at him and made him wash his hands again. The feeling of the wood railing in my hands and later the relief of leaning on the ball. The black sky outside the door. Sips of water sounds of running water sounds of the river at night.

Junko-san asked me at some point if I wanted to go upstairs to the room I had prepared; all I said was “it feels good here”. She didn’t ask again. I was truly not conscious of pushing or of pain only of rhythmic waves rocking my body a powerful intense sensation when his head emerged and then the warm slither of his body. My mother announced “it’s a boy!” Junko-san passed him between my legs and I held him as I knelt upright. He was covered in meconium and the second midwife Saito-san suctioned him since he seemed to have aspirated some. Junko-san told me later the cord had been looped around his neck once loosely. A quick flash of the fragile balance we all maintain. Time: 2:06 am just over 3 hours from start to finish.

I had made them promise to wait for the cord to stop pulsing before cutting it and I trust that they did since I do not remember it myself. I know this was a challenge for Saito-san who was eager to cut promptly so they could test the cord blood since I am Rh negative and Toshio is positive. Neither midwife had previous experience doing this and they didn’t know how to both accommodate my request and meet the demands of the Rh situation. “Research it” Junko-san encouraged me “and let us know what you find”. An internet search turned up a Midwifery Today forum with several comments pertinent to our dilemma; from here came the idea of drawing blood with a syringe and then gently placing a finger over the opening until the cord stopped pulsing.

I was still kneeling upright holding Taiyo when the placenta came swooshing out all at once. I then turned to the door and saw that a futon had magically appeared in the adjoining room. I lay down with Taiyo on my chest as Junko-san vigourously massaged my abdomen the only real discomfort that stands out in my mind. Taiyo lifted his head again and again searching for my breast until he latched on. Saito-san rubbed at him briskly with a towel and I made her stop; it seemed wrong to touch him with anything other than gentle hands. It seems she wanted to clean him up –he had after all been born smeared with meconium– but Junko reassured her and Taiyo stayed on me both of us naked for about 2 hours. This you can do with a baby born on a balmy night in August in Japan! Excited chatter surrounded us until I asked everyone to be quiet. Already the bossy mom! They say that newborns cannot focus their eyes but he seemed to have the most intense gaze. I do not remember him crying at all just as I have no recollection of making any sounds myself; Michiyo-san tells me that the monks in the temple across the river certainly heard my voice however.

Finally we got up and washed Taiyo was weighed and we headed upstairs. After a 4am snack of cold somen noodles it was time to rest and begin the longer journey that awaited us.

Was homebirth our best option? Well I tore and healed more slowly for the lack of stitches (midwives are not permitted to perform surgical procedures here). I recovered at home so was obliged to receive visitors and think about household chores (though we had plenty of helping hands around!) On the other hand not once did I think about having to get in the car about privacy concerns about filling in forms about wearing anything that was not my own about decoding technical terms flying over my head in a foreign language about when or how I should move or position myself about whether or not it was “time”. For me being at home meant there was no anxiety no fear and I believe as a result I did not experience excruciating pain.

No one was with us that we did not choose to be there. The relationship we continue to have with our midwife is one I will always treasure dearly. Junko-san and Dr. Ri love it when we drop in with Taiyo which almost makes up for our lack of grandparents on the same continent. I can go to the very place my son was born again and again even sit there with him and tell the story as we wash away the sweat of the day as many times as he wants to hear it. All this is a gift nearly as precious as Taiyo himself.

09年8月23日産まれです。
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  • 現在、朝比奈は左半身が不自由なので直接お産には関われません。夫が緑町診療所の1床で自然分娩をやっています。ここでは若い助産婦がお産をやっています。妊婦健診時には、朝比奈も若い助産婦と一緒に お話をさせてもらっています。実は半身不随になり、一度はお仕事を断念しようと思いました。おかげさまで生かされたので「まだ私のやらなくてはならないことがあるのでは」と思いなおしました。今のところ言葉には何の支障もありません。お仕事を少しでも違う形で続けられれば嬉しいと思っております。

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